※これは「[恭親王家三代記]」の初代・奕訢(えききん)を、「西太后にどう削られていったか」に絞って掘り下げる一本です。良い改革をしていたはずの人が、いつのまにか表舞台から消えている。彼は西太后に失脚させられたのか?——答えはイエス。ただし、一度の政変でパタリと倒れたのではありません。**二十年以上かけて、使われては削られ、上げられては落とされる**、という、じわじわとした締め上げの果ての失脚でした。
奕訢は、何を改革していたのか
奕訢は咸豊帝(かんぽうてい)の弟。清朝がアヘン戦争・アロー戦争と外圧に押されていた時代に、**現実を直視できる、数少ない皇族**でした。彼が中央で担ったのは、こういう仕事です。
– **総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん)の創設**——西洋との外交を専門に扱う、清朝初の”外務省”。それまで「外国は朝貢してくる格下」という建前しか持たなかった清朝が、初めて対等な外交の窓口を作った、画期的な一歩でした。
– **洋務運動(自強運動)の中央からの後押し**——西洋の軍事技術・工業を導入して国を強くする動きを、中央政府の側から支えました。
– **漢人実力者との協働**——曾国藩・李鴻章・左宗棠ら、地方で軍と近代化を担った漢人官僚を、中央から支える立場にいました。
ここが肝心です。清朝の軍事力が満洲人から漢人へ移っていく大きな流れ(→「[咸豊帝の財政崩壊(軍閥化)]」)のなかで、奕訢は**「漢人の実力者に軍事と近代化を任せる」という清朝の生き残り策を、満洲皇族の側から支え、両者をつなぐ調整役**でした。太平天国という未曾有の内乱を乗り越えて清朝がひとまず持ち直した小康期を、「**同治中興(どうちちゅうこう)**」と呼びます。それは、**西太后・奕訢・漢人実力者の三者の協働**で成り立っていた。奕訢は、その要にいたのです。
出発点は「共犯」だった——辛酉政変(1861年)
じつは、西太后と奕訢は、最初から対立していたわけではありません。むしろ、**共犯**から始まりました。
1861年、咸豊帝が避暑先の熱河(承徳)で世を去り、幼い同治帝が残されます。咸豊帝は、有能な弟・奕訢が単独で実権を握るのを恐れ、彼を摂政の枠の外に置き、**顧命八大臣(こめいはちだいじん=載垣・端華・肅順ら八人)**による共同摂政を遺言しました。両太后(東太后・慈安/西太后・慈禧)には、すべての勅令に印璽を捺す二重チェックの役だけを与えます。
ところが八大臣は、太后の役割を「形式的な印押し」と甘く見て、両太后の怒りを買った。同時に、排除された奕訢も、北京での影響力を背に、強い憤りを抱いていた。——**”のけ者にされた三者”が、手を組んだ**のです。1861年、彼らは**辛酉政変(しんゆうせいへん)**を起こし、八大臣を一気に失脚させ、肅順を処刑、載垣・端華を自尽させます。
この政変で、東西の両太后は**垂簾聴政(すいれんちょうせい)**——幼帝の後ろに簾を垂らし、その陰から政治を執る立場——を手にし、
奕訢は**議政王(ぎせいおう)**として、政権の実務トップに就きました。
けれど——この「有能な同盟者」こそが、やがて西太后にとって、最大の警戒対象になっていくのです。
なぜ西太后は、奕訢を警戒したのか
理由は、はっきりしています。**奕訢が、有能で、声望が高く、しかも皇族としての格も申し分なかったから**です。
西太后の権力の源泉は、あくまで「幼い皇帝の母」という立場でした。血筋は側室の出であり、彼女自身が皇位を持つわけではない。その足元を脅かしうるのは、**能力と正統性を兼ね備えた男子皇族**——つまり奕訢でした。**自分を権力の座へ押し上げてくれた人が、同時に、自分を最も脅かしうるライバルでもある。**この緊張が、二人の以後を決定づけます。
じわじわとした失脚——上げては落とすの繰り返し
西太后は、奕訢を一度に切り捨てはしませんでした。そこが、彼女の恐ろしく巧みなところです。**有能なうちは使い、脅威になれば削り、また要れば戻す**——この上げ下げを、繰り返したのです。
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– **1865年**、政変からわずか四年後、西太后は早くも奕訢から**「議政王」の称号を剥奪**します。ただし完全には切らず、政務には復帰させた。「お前の力は私が与えたもので、いつでも取り上げられる」と示す、見せしめでした。
– その後も、折に触れて奕訢の権限は削られていきます。
– **1881年**、東太后・慈安が急死。奕訢は、重要な後ろ盾を一つ失います(西太后による毒殺が噂されています)。
– **1884年**、清仏戦争(ベトナムをめぐるフランスとの戦い)での失策を口実に、西太后は**軍機処(ぐんきしょ=政策決定の最高機関)から、奕訢を含む中枢メンバーを丸ごと更迭**しました。これが**甲申易枢(こうしんえきすう)**。奕訢の政治生命は、事実上、ここで終わります。
二十年以上かけて、使えるうちは使い、危なくなれば削る——その繰り返しの果てのとどめが、1884年の甲申易枢だったのです。
私の見立て——奕訢の失脚は、清朝にとって何を意味したか
奕訢が落とされたことは、一人の皇族の失脚にとどまりません。**清朝の改革そのものにとって、取り返しのつかない損失**だったと、私は思います。
なぜなら奕訢は、「**満洲皇族でありながら近代化を理解し、漢人実力者ともうまくやれる調整役**」という、替えの効かない役回りを担っていたからです。満洲皇族の警戒心と、漢人実力者の現実的な力量。その間に立って両者をつなぐ人がいて初めて、清朝はかろうじて前に進めた。同治中興が成り立ったのは、この調整役がいたからでした。
ところが1884年、その人がいなくなった。以後、清朝の中枢からは、皇族と漢人実力者をつなぐ求心力が失われていきます。そして、その十年後——**清朝は日清戦争(1894年)で、日本に敗れる。**
ここで、下関の記事を思い出してください。李鴻章が、下関で、たった一人で敗戦の後始末を背負わされた、あの場面です(→「[李鴻章と下関]」)。**なぜ李鴻章は、あれほど孤立していたのか。**その背景の一つに、十年前に**奕訢という中央の後ろ盾を失っていた**ことがあった、と私は見ています。もし奕訢が中枢に健在で、李鴻章を中央から支えていたら、日清戦争前後の清朝の動きは、少し違っていたかもしれません。**西太后は、目の前のライバルを制するのと引き換えに、国の未来を担える調整役を失った**のです。
おわりに——「有能」であることの危うさ
奕訢を見ていると、権力の世界では「有能であること」が、必ずしも身を守らない——むしろ身を危うくする、という皮肉を感じます。彼は、無能だったから落とされたのではありません。**有能で、声望があり、皇族としての格も高かったからこそ、警戒され、削られ続けた。**もし凡庸な皇族だったら、かえって長く中枢にいられたかもしれない。
これは、このブログで何度も見てきた「**功高震主(こうこうしんしゅ=功が高すぎて主君を震わせる)**」——信陵君も、呂不韋も、年羹堯も和珅も砕かれた、あの法則の、皇族版です(→「[信陵君]」)。同治中興という清朝最後の輝きを支えた立役者が、その輝きを生んだまさにその有能さゆえに、権力者に警戒されて退場していった。奕訢の生涯は、清末の縮図のように、私には見えます。——奕訢を削り続けた西太后の判断は、**彼女個人の権力にとっては、正解**でした。悪女の愚行ではなく、権力者の正解。権力者の正解が国そのものを傾けるということがしばしば歴史に繰り返されてきたと思います。
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◀ 一族の全体像:[恭親王家三代記(奕訢・溥偉・毓嶦)]
◀ 失脚の余波:[李鴻章と下関(孤立の遠因)] | [咸豊帝の財政崩壊(軍閥化)]
◀ 相手と時代:[西太后はいかにして台頭したか] | [清朝はなぜ滅んだのか(補論)]
◀ 「有能ゆえに削られる」:[信陵君(功高震主)] | [歴史は勝者が書く]
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