はじめに
人気中国ドラマ「月に咲く花の如く」の舞台となった涇陽(現在の咸陽市)。
なぜこの地に大商家が栄えたのか?その答えは、遊牧民と定住民を結ぶ重要な交易と、シルクロードの要衝としての地理的優位性にありました。
そして今回、その交易の中心的商品だった「茯茶(フーチャ)」を実際にいただく機会に恵まれました。
涇陽が商業都市として栄えた理由
シルクロードの要衝として
涇陽が商業都市として繁栄した最大の理由は、その地理的位置にあります。
涇陽は「中華の中心でありながら北方シルクロードの出発地でもある」特別な立地でした。
古くから重要な交通の要衝として機能し、東西文化が交差する場所として栄えてきたのです。
シルクロードは紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網で、
中国の長安(現在の西安)から西アジアやインドに達する壮大な交易路でした。
涇陽は西安から北西数十キロの位置にあり、まさにこの国際交易路の重要な中継点だったのです。
遊牧民のニーズと交易の必然性
遊牧民の生活には独特の課題がありました:
- 栄養バランスの問題:狩猟により動物性タンパク質は豊富に得られるものの、穀類などの糖質が不足
- 健康維持の必要性:脂肪分の多い肉類や乳製品中心の食生活により、消化を助けるお茶が必要不可欠
- 繊維製品の不足:毛皮は得られても、畑がないため綿製品や絹製品の入手が困難
定住民との交易システム
こうしたニーズに応えて、涇陽では以下の商品が活発に取引されました:
- 穀物(米、麦など)
- お茶(特に茯茶)
- 綿や絹の布地
- その他の生活必需品
中央アジアからは、ラクダ、金銀、半貴石、ガラス製品、毛皮、羊毛などが運ばれ、
活発な国際交易が行われていました。
この地理的優位性と多様な商品需要により、涇陽は一大商業都市として発展したのです。
茯茶とは何か?
「国策茶」としての茯茶
茯茶は単なるお茶ではありません:
- 国家無形文化遺産に指定された独特の発酵方法
- 国家指定工場以外では製造が許可されていない厳格な管理
- 中国湖南省益陽県でのみ製造される特別なお茶
「削胃茶」の異名
茯茶は「削胃茶」とも呼ばれ、その意味は「食べた油を流す」。これは遊牧民の食生活における重要な役割を物語っています。
遊牧民にとっての茯茶の重要性
遊牧民たちは言います:
「寧可三日無糧、不可一日無茶」 (三日食べ物がなくても、お茶は一日も欠かすことができない)
この言葉が示すように、茯茶は彼らにとって:
- 健康維持の必需品
- 消化促進の薬
- 生活に欠かせない相棒
なのです。
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茯茶の製造過程~「金の花」の神秘~
製造工程の複雑さ
- 製造期間:1年から1年半
- 工程回数:20数回もの製造工程
- 原料:緑茶と同じカメリア・シネンシス(茶の木)
- 分類:黒茶の代表的品種
「金の花」という奇跡
製造過程で現れる「金の花」と呼ばれる黄色い粉が茯茶の最大の特徴です:
- 正体:麹菌の一種
- 独特性:他の茶類、さらには他の黒茶にも見られない茯茶だけの特徴
- 発酵の証:微生物による自然発酵が正常に行われている証拠
現代日本人にとっての茯茶
生活習慣病への効果
現代の日本人の食生活も、実は遊牧民と似た課題を抱えています:
- 脂質過多:肉類や乳製品、油分の多い食事
- 運動不足:デスクワーク中心の生活
- 消化の負担:不規則な食事時間
茯茶の「削胃茶」としての効果は、現代日本の生活習慣病予防にも期待できそうです。
期待される健康効果
- 脂肪分解促進
- 消化機能のサポート
- 腸内環境の改善
- メタボリック症候群の予防
泾阳茯砖茶を味わって
実際に茯茶をいただいてみると、その独特の風味と深みに驚かされます。
千年以上の歴史が育んだこのお茶は、単なる嗜好品ではなく、人々の健康と生活を支えてきた「生命の茶」なのだと実感します。
そして、ドラマの後半では、清朝末期を支えていたこともわかり、ますます感慨深いものがあります。
清朝末期の激動と涇陽の商人たち
義和団事件と西太后の避難
清朝末期の1900年、義和団事件(義和団戦争)が勃発しました。義和団は「扶清滅洋」(清朝を支持し、外国を滅ぼす)をスローガンに掲げ、反キリスト教・排外主義の運動を展開。
当初この運動を支持した西太后は、諸外国に宣戦布告しました。
しかし、イギリス、アメリカ、ロシア、日本など8カ国連合軍が結成され、1900年8月14日に北京に侵攻。西太后と光緒帝は紫禁城を脱出し、西方の西安に避難することとなりました。
西太后の西安滞在は1902年1月まで、実に約1年半に及びました。
大商家の支援と献金
ドラマ「月に咲く花の如く」に描かれていたように、この激動の時期に涇陽の大商家たちが朝廷を支援していた可能性は十分に考えられます。
シルクロード交易で蓄積された豊富な資金力を持つ商人たちが、避難してきた西太后を経済的に支援したであろうことは、歴史の文脈からも自然な流れと言えるでしょう。
涇陽の商人たちは、茯茶や綿織物の交易で築いた富により、清朝末期の動乱の中でも重要な役割を果たしていたのです。