耶律喜隐の史実
耶律喜隐(?-981年)、キタイ族、辽の太祖耶律阿保机の孫、耶律李胡の長男で、辽の皇族、官僚。
耶律喜隐は高身長で風格があり、騎射が得意でしたが、性格は軽率で、自尊心が高かったそうです。
960年、反乱の計画が露見したことで、父親の耶律李胡が連帯して死に至りました。
しかし、辽の穆宗は耶律喜隐を罰せず、許すことにしました。
その後、辽穆宗が彼を召喚したのですが、時間通りに現れなかったため、辽穆宗は彼を怒って鞭打ち、耶律喜隐は恨みを持ち、再度反乱を企てたため投獄されました。
969年、辽景宗の即位。
耶律喜隐は赦され、景宗は、皇后の蕭燕燕の姉である萧夷懒を与えました。
爵位も回復され、宋王に改封されました。
977年、には、南西方面の招討使に任命されました。
980年、耶律喜隐は反乱を企てました。
辽景宗は彼を脚錠と手錠で縛り、獄城を建設して祖州に投獄しました。
981年 5月、北宋から降伏した兵士200人余りが上京で反乱を起こし、耶律喜隐を助け出して立てようとしました。
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しかし、獄城が堅固だったため入れず、代わりに彼の息子耶律留礼寿を擁立しました。
しかし、反乱は鎮圧され、耶律留礼寿は捕えられ、
7月、辽景宗によって耶律留礼寿は処刑されました。
同時に耶律喜隐にも自害を命じました。
耶律喜隐の功績 辽景宗への忠告
耶律喜隐が帰京したとき、辽景宗が北汉皇帝へ手紙を書いているところを目撃しました。
その手紙は卑屈で謙虚であり、耶律喜隐は「我が朝は北汉の祖父にあたります。手紙の語気がこうでは、国体に損なうのではないか」と忠告しました。辽景宗は直ちに手紙を訂正しました
ドラマ「燕雲台」との違い
ドラマの通り、耶律喜隐は高身長でイケメンで騎馬射撃の名手であったようです。
プライドが高く、慎重さに欠けるところがあったようです。
耶律留礼寿と耶律喜隐の最後はドラマの脚色で、雨の中、絶命しましたが、別々に亡くなったようです。
萧夷懒と結婚前から恋仲だったかどうかは記載がありませんが、
耶律喜隐の死後、蕭燕燕をひどく憎んでいたらしいので、耶律喜隐を深く愛していたことは間違い無いと思います。