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耶律罨撒葛の実像ー史実とドラマで異なる悲劇の皇族

ドラマ『燕雲台』をご覧になった方なら、甘言を弄し策略を巡らしながらも妻への深い愛情にみちた耶律罨撒葛の印象が強く残っているのではないでしょうか。しかし、歴史の記録を紐解くと、そこには全く異なる人物像が浮かび上がってきます。今回は、この悲劇の皇族の実像に迫ります。

耶律罨撒葛の華々しい出発点

耶律罨撒葛(やりつ あんさつかつ) は934年、遼太宗・耶律德光の息子として生まれました。上京临潢府(現在の内モンゴル自治区巴林左旗)で皇族として育った彼は、わずか5歳で太平王に封じられるという輝かしいスタートを切ります。

基本プロフィール

  • 生没年:934年 – 972年(享年39歳)
  • :遼太宗・耶律德光
  • :靖安皇后・蕭温
  • :蕭胡輦(蕭思温の娘、実は姪にあたる)

兄である遼穆宗が即位すると、罨撒葛は国政を委ねられるという重責を担いました。しかし、ここから彼の人生は暗転します。

罨撒葛は兄に対して謀反をしようかと迷う

穆宗は治世後期になると暴虐で猜疑心が強まり、きちんと政治に向き合わなくなりました。

その結果、国政を委ねられていた罨撒葛の心にしだいに不満が高まっていきました。

953年、罨撒葛は占いによって「謀反の吉凶」を予測したところ、このことが穆宗の耳に入ってしまいます。

反乱を企てたとして拘束された罨撒葛は、流刑に処されました。

西北の辺境防衛という名目のもと、実質的には左遷です。与えられた兵力はわずか千人未満。

この辺境の地で、彼は16年もの長い歳月を過ごすことになります。

罨撒葛、耶律賢により赦免される

969年、遼景宗・耶律賢が即位すると、罨撒葛はようやく赦免され、斉王に封じられます。

しかし復権とは名ばかりで、長期にわたり厳重な監視下に置かれ続けました。

そして972年、罨撒葛は39歳という若さで病死します。死因は悪性腫瘍による鬱病とされています。

長年の辺境生活と監視下での抑圧が、心身を蝕んでいたのでしょう。

死後、彼には「欽靖皇太叔」という諡号が贈られました。

欽靖とは「慎み深く安寧をもたらす」という意味です。

この諡号には、彼の謀反の動機とその後に対する同情的な見方が込められているとも言われています。

なお、史書には彼の子息についての記録は残されていません。

ドラマと史実―あまりに違う

ドラマ『燕雲台』での罨撒葛は、次のように描かれています。

ドラマでの描写

  • 義父暗殺、主君暗殺未遂など、度々陰謀を企てる冷酷な野心家
  • 最終的に蕭燕燕(後の蕭太后)の子を毒殺した罪で賜死
  • 臨終間際に妻・蕭胡輦との恋愛感情が強調される
  • 「鉄の男に秘めた情熱」という設定

史実との主な相違点

1. 死因の違い

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  • ドラマ:賜死(処刑)
  • 史実:病死(悪性腫瘍・鬱病)

2. 政治的立場

  • ドラマ:蕭燕燕や耶律賢と対立する悪役
  • 史実:謀反の対象は兄の耶律璟(穆宗)のみで、失敗後は再起せず

3. 人物像

  • ドラマ:冷酷な野心家でありながら秘めた情熱を持つ複雑な人物
  • 史実:史書に耶律賢・蕭燕燕との直接対立の記録なし。殺害された経緯も存在しない

悲劇の皇族に思いを馳せて

史実の耶律罨撒葛は、ドラマのような陰謀家ではなく、むしろ時代と兄の猜疑心に翻弄された悲劇の人物だったと言えるでしょう。

謀反すべきか迷った挙句の占いということがきっかけで人生が暗転し、16年もの辺境生活を強いられ、復権後もなお監視下に置かれ続けた彼の心情を思うと、胸が痛みます。

ドラマ『燕雲台』は逆に順当に行けば皇帝になっていただろう耶律罨撒葛を脚色して復活させました。

遼史では蕭燕燕や耶律賢の立場に立っていますので、耶律罨撒葛や蕭胡輦はあまり記述がありません。

ドラマ『燕雲台』蕭燕燕を主人公としていますが、作者の心には敗者の声が聞こえていたのかもしれません。

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