> ※この記事は、このブログのあちこちに顔を出してきた「諡号(しごう)」という制度を、まとめて解説する背骨の一篇です。劉協の「献」、楚懐王の「懐」、乾隆帝の長い長い称号……。じつは諡号とは、後世の人が、亡き人の一生に下す、たった一文字(数文字)の判決。「[歴史は勝者が書く]」というこのシリーズのテーマの、いちばん小さな単位なのです。
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諡号とは——死後に下る「人生の通知表」
諡号とは、亡くなった皇帝や貴族、重要人物に対し、その生涯の功績と過失を総合的に評価して、朝廷が授けた称号です。現代風にいえば、死後にもらう「人生の通知表」。漢の「武帝」「文帝」、隋の「煬帝(ようだい)」——私たちが歴史で覚える皇帝の呼び名の多くが、じつはこの諡号です。
この制度は西周(紀元前十一世紀ごろ)に始まり、清朝末まで、およそ三千年も続きました。たった一文字に、一人の人間の一生の評価を凝縮する——漢字文化ならではの、見事な仕組みです。
> 始皇帝だけが、これを拒んだ ところが、この三千年のなかで、ただ一度、諡号を廃止した人物がいます。秦の始皇帝です。理由が、じつに彼らしい。諡号とは、いわば「臣下が君主を、子が父を、死後に採点する」制度。始皇帝は、それが我慢ならなかった。自分は「始皇帝」、次は「二世」「三世」……と、誰にも評価されず、ただ番号で永遠に続いていく——そう望んだのです(→「[秦は天命を否定したのに]」)。死後に他人から判決を下されることすら、彼は拒否した。けれど、その秦はすぐ滅び、漢の世になると、諡号はあっさり復活します。始皇帝が逃れようとした「死後の評価」もまた、天命と同じく、消えはしなかったのです。
三つの諡号——褒めるか、哀れむか、貶めるか
諡号は、大きく三種類に分かれます。
① 美諡(びし)——賞賛 優れた功績を残した人への、名誉ある諡号です。代表が「武」。漢の[武帝]は、領土を大きく広げ、シルクロードを開き(→「[劉解憂と前漢の西域外交]」)、漢の全盛期を築きました。「武」は、その武功と決断力を称える字です(ちなみに「武」という字の理想そのものは→「[止戈為武(武の七徳)]」)。ほかに「文」「明」「宣」「景」なども、美諡です。
② 平諡(へいし)——同情・中立 功罪なかばする人、あるいは不運な生涯を送った人への諡号です。代表が「懐」。楚の懐王(かいおう)は、治世の初めに改革派の[屈原]を重く用い、楚の最盛期を築きました。けれど晩年、秦の策士・[張儀]の「商於の地六百里を譲る」という甘い言葉に騙され(→「[和氏の璧]」にも出てくる、あの張儀です)、戦に大敗し、ついには秦におびき出されて客死します。「懐」という字には、才がありながら不運に呑まれた君主への、哀惜がこもっています。
③ 悪諡(あくし)——批判 暴政を行った統治者への、不名誉な諡号です。代表が「厲(れい)」。周の厲王(れいおう)は、山林や川を独占して民の生計を奪い、そして——自分を批判する者を、片端から殺した。「私は、誹謗を封じることができる」と豪語する厲王に、家臣の召公は、有名な言葉で諫めます。「民の口を防ぐは、川を防ぐより甚(はなは)だし(防民之口、甚於防川)」——川をせき止めれば、いつか決壊して大水になる。民の口をふさげば、いつか暴発する、と。果たして厲王は、国人の暴動で都を追われました(紀元前八四一年。中国史で年代が確実にわかる、最初の年です)。
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> 批判を「誹謗」と呼ぶ誘惑は、時代を超える 厲王の「私は誹謗を封じられる」という一言は、二千八百年たった今も、どこか他人事に聞こえません。正当な批判を「ただの誹謗中傷だ」と言い換えて、口をふさぎたくなる——その誘惑は、権力を持つ者に、いつの世もつきまといます。だからこそ召公の「防民之口」は、これほど長く語り継がれてきたのでしょう。皇帝が「わざと讒言を聞かない」ために冠に綿を垂らした[旒と垂裳]の知恵とも、ちょうど裏表です。聞くべき声と、聞き流すべき声を、どう見分けるか——それは、為政者の、永遠の宿題なのです。
長くなり、そして空洞になった
当初、諡号は「武」「文」のように、一〜二文字の簡潔なものでした。ところが時代が下るにつれ、どんどん長くなります。極端な例が、清の[乾隆帝]。その正式な諡号は——「法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武欽明孝慈神聖純皇帝」、なんと二十三文字。もはや通知表というより、履歴書です。
> 私の見立て——「判決」が「賞賛」に堕すとき 諡号制度は、唐・宋で完成の域に達しますが、明・清になると、本来の意味を失っていきます。皇帝への権力集中が進むにつれ、諡号は「客観的な評価」ではなく、「ただの美化のツール」に変わってしまった。悪諡が贈られることはほぼなくなり、どの皇帝も、長く華麗な美諡を受けるようになります。——これは、まさに「[歴史は勝者が書く]」が極まった姿です。生者が、死者を本当に採点していたあいだは、諡号は生きていた。けれど、勝者が自分(の先祖)を飾るだけの道具になったとき、その一文字は、空っぽになった。「厲」のような厳しい一字を、堂々と贈れた時代のほうが、じつは歴史に対して、誠実だったのかもしれません。
まとめ——覆され続ける、一文字の判決
諡号は、後世が死者に下す、一文字の判決でした。けれど——その判決すら、決して絶対ではありません。同じ漢の[献帝劉協]に、魏は「献」(聡明で徳がある)と贈り、蜀は「愍」(不運を悼む)と贈った。立場が違えば、判決も違う。そして[曹操]のように、生前の評価が、千年後の『三国演義』で「奸雄」へと塗り替えられた人もいます。一文字に込められた評価もまた、書く者によって揺れ、後の世に覆される。——だからこそ、私はこのブログで、その一文字の下に埋もれた「本当の顔」を、何度でも掘り起こしたいのです。諡号は、歴史の最終成績表に見えて、じつは、いつでも書き直せる、鉛筆書きの評価なのですから。
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