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幽繆王・趙遷は本当に無能だったのか——詩『山水』と、二つの諡号【キングダム】

> ※この記事は、「[諡号]」の話の続きであり、シリーズの序文「[歴史は勝者が書く]」の、ひとつの実例です。漫画『キングダム』にも変わり者の王として出てくる、趙(ちょう)の最後の王・趙遷(ちょうせん)。歴史書は彼を「暗愚」と切り捨てます。けれど、流刑地で彼が詠んだ一編の詩を読むと——そこには、過ちを悔い続ける、一人の人間がいました。

「愚王」と呼ばれた、遊女の子

趙遷の人生は、生まれた時から、ねじれていました。母の趙悼倡后(ちょうとうしょうこう)は、もとは遊女(倡=歌い女)。その美貌で悼襄王の寵を得て、後宮に入ります。このとき真っ先に反対したのが、名将・李牧(りぼく)でした。「身分の低い女を後宮に迎えるのは、礼に反する」と。——この一件は、のちのち、効いてきます。

やがて倡后は、王の学友・郭開(かくかい)と手を組み、本来の世継ぎである正妻の長男・趙嘉(ちょうか)を陥れ、わが子・趙遷を太子の座に据えました。礼制に真っ向から反する、前代未聞の事態。幼い趙遷は、こうした血なまぐさい後宮の権力闘争を、毎日見ながら育ったのです。しかも母には、密通の相手がいた——それも、父・悼襄王の実兄、春平君(しゅんぺいくん)だったと伝わります。自分の母が、父の兄と通じる姿を、幼い趙遷は、どんな思いで見ていたでしょうか。

> 後年、彼が極端に猜疑心が強く、大人の男女を信じられなかったのは、こうした幼少期が影を落としていたのかもしれません。漫画『キングダム』が、彼を「少年たちとだけ心を開く王」として描くのは——史実に男色の記述はありませんが——心理的には、なかなか説得力のある脚色だと、私は感じます。

名ばかりの王、秦の影に囲まれて

紀元前二三六年、趙遷は十九歳で即位します。けれど、それは名ばかり。実権は、母・倡后、その腹心・郭開、母の愛人・春平君の三人が握っていました。しかも、その三人がそろって、秦から金を受け取っていたのです。春平君は親秦派の領袖、倡后も郭開も秦の工作に動く——若き王の周りは、秦の息のかかった者ばかりでした。

加えて、宮廷は内側から割れていました。正嫡の趙嘉を退けて立った王ですから、「正統な太子を追い落とした」という不満がくすぶり、趙嘉派も潜んでいた。親秦派、文官派、太子派の残党——思惑が絡み合い、国の危機にあっても、宮廷は一枚岩になれない。秦は、その亀裂に楔を打ち込んだだけでした。こんな状況で即位した青年に、いったいどんな選択肢があったでしょうか。

李牧を殺してしまった、本当の理由

紀元前二二九年、秦の大軍が趙へ侵攻します。それでも趙には、まだ希望がありました。李牧——戦国四大名将に数えられる、不敗の将軍です。彼が秦軍を幾度も退けてきたからこそ、人々は「李牧がいる限り、趙は滅びない」と信じていました。

正面から李牧に勝てないと知った秦は、別の手を使います。郭開への、賄賂です。大金を受け取った郭開は、趙遷にこう囁きました。「李牧と司馬尚が、秦に内通しています」と。

> 私の見立て——これは「反間計」の、教科書だった この手口、このブログで何度も見てきたものです。秦が、敵国の有能な将を、戦場ではなく「噂と賄賂」で除く——これこそ、秦の参謀[尉繚]が国家戦略にまで磨いた「反間計」そのもの。魏の名将を失わせ、[信陵君]を切り捨てさせたのと、まったく同じやり口です(→「[信陵君]」)。戦国四大名将すら、敵の剣ではなく、味方の囁きで死ぬ。しかも趙遷の場合、心の奥には、あの古い記憶も燻っていたのかもしれません。李牧は、かつて母を「卑しい」と蔑んだ男。そのわずかな不信の種に、郭開の讒言が火をつけた——そう考えると、これは単なる嘘ではなく、長年の感情を突く、計算された一撃だったのです。

さらに、宮廷の文官派にとって、兵にも民にも絶大な人気を誇る李牧は、放っておけば自分たちの権力を脅かす存在でした。秦の賄賂、文官派の圧力、母と春平君の説得——あらゆる方向から、同じ結論へと押し流されていく。そして趙遷は、決断してしまいます。李牧を処刑し、司馬尚を解任した。結果は、目を覆うばかり。名将を失った趙軍は崩れ、紀元前二二八年、趙は滅びました。

> ここは、はっきり書きます 李牧を殺したのは、取り返しのつかない、本物の過ちでした。趙遷を「かわいそうな犠牲者」として、聖人に祭り上げるつもりはありません。けれど——「だから愚王だ」のひと言で片づけるのも、また違う。過ちを犯したことと、その人が無能だったことは、同じではない。私が知りたいのは、その間にある「本当の灰色」です(このブログの流儀=→「[歴史は勝者が書く]」)。

流刑地の詩『山水』——敗者の、自責の声

国を失った趙遷は、はるか房陵(ぼうりょう=今の湖北の山奥)へ流されます。暖かい部屋も、美しい音楽も、うまい食事もない。あるのは冷たい山風と、激しい川の音だけ。そこで彼が詠んだと伝わるのが、詩「山水」です。

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> 房山を宮と為し 沮水(そすい)を漿(さけ)と為す
> 琴を調べ瑟を奏するを聞かず 惟だ流水の湯湯(しょうしょう)たるを聞くのみ
> 水の無情なる 猶お能く自ら漢江に致(いた)る
> 嗟(ああ)余 万乗の主 徒(いたず)らに故郷を夢に懐(おも)うのみ
> 夫れ誰か余をして此に及ばしめしや 乃ち讒言の孔(はなは)だ張れるなり
> 良臣 淹没(えんぼつ)し 社稷(しゃしょく)淪亡(りんぼう)す
> 余 聴くこと聡(さと)からず 敢えて秦王を怨まんや

——この山が、今の私の宮殿。この川の水が、私の酒。

琴や瑟の音は聞こえず、ただ激しい水音だけが響く。

無情なこの水でさえ、いつかは漢江へ辿り着くのに

——ああ、かつて万乗の君主だった私は、ただ故郷を夢に見るばかりで、帰ることもできない。

誰が私をこんな目に遭わせたのか。それは、讒言が、はびこったからだ。優れた臣は埋もれ、国は滅んだ。

——私の耳が、聡くなかったのだ。それなのに、どうして秦王を怨めようか。

最後の一行に、私は胸を突かれます。「敢えて秦王を怨まんや」——秦を恨むことさえ、できない。なぜなら、国を滅ぼしたのは秦ではなく、讒言を見抜けなかった自分自身だと、彼は分かっていたから。これは、暗愚な王の詩でしょうか。ここにいるのは、自らの過ちのすべてを引き受けた、深い後悔と、相応の教養を持った、一人の人間です。(敗れた者が詩に託す声は→「[項羽の垓下歌(麗王別姫)]」「[曹操「蒿里行」]」「[采薇(陛下はどこに)]」とも響きます。)

二つの諡号——「幽繆王」と「愍王」

趙遷の死後、彼には、まったく違う二つの諡号(しごう)が贈られました(諡号の仕組みは→「[諡号制度]」)。

趙の旧臣たちが、ひそかに贈ったのは「愍王(びんおう)」——哀れむべき王。彼の詩を読んだ家臣たちは涙し、不遇の主君を悼んで、この名を贈りました。(くしくも、これは後漢最後の皇帝[劉協]に、蜀が贈った「愍」と、同じ字です。敗者を悼む人の心は、時代を超えて、同じ一字を選ぶ。)

一方、歴史書に残り、今日まで彼の名となったのは「幽繆王(ゆうびゅうおう)」。「幽」も「繆」も、諡号のなかでも最も否定的な、暗愚と混乱を意味する字です。

> 私の見立て——「採点されない者」が、敵を採点した ここに、鋭い皮肉があります。「[諡号]」の記事で書いたとおり、秦の始皇帝は、自分への諡号を拒みました。

臣下や子孫に死後採点されるのが我慢ならず、「朕は始皇帝、あとは二世・三世」と、評価を退けたのです。ところが——その同じ秦の天下で、滅ぼされた六国の王たちには、「幽」「繆」のような貶める名が定着していった。自分は誰にも採点されず、敗者だけを採点する

滅ぼされた国の王は、みな愚かだった。だから秦の統一は正しかった」——勝者が歴史を書くとは、こういうことです。

趙遷が本当に幽繆王だったのかは、もう分かりません。確かなのは、その字を選んだのが、彼を滅ぼした側だった、ということだけです。

まとめ——あなたは、どちらの名で呼ぶか

趙遷は、確かに過ちを犯しました。李牧の処刑は、弁解のしようがない。けれど、彼が育ったのは、母が父の兄と通じ、信じるべき家臣がみな敵に買われている、そんな宮廷でした。無能だったというより、最初から勝ち目のない盤面に座らされた「構造的な敗者」だった——そう考えるほうが、私には正確に思えます。そして彼は、最後まで、自分の過ちを悔い続けた。

「幽繆王」と呼べば、それは始皇帝が押した烙印を、なぞることになります。「愍王」と呼べば、彼の詩に涙した旧臣たちの側に、立つことになる。——どちらの名で呼ぶかは、あなた次第です。ただ、私は、あの最後の一行を、忘れたくないと思うのです。「私の耳が、聡くなかった。それなのに、どうして秦王を怨めようか」。勝者の書いた歴史の陰には、いつも、こうした敗者の小さな声が、埋もれているのですから。


▼ 趙国滅亡シリーズ
・全体像(なぜ滅んだか):趙はなぜ滅んだのか【まとめ】
・出来事の流れ:趙幽繆王と趙国滅亡 完全時系列ガイド
・人物:趙遷(幽繆王)| 悼襄王(父)| 倡后(母)| 郭開(奸臣)| 春平君

◀ 諡号と勝者の判決:[諡号制度(幽繆王と愍王)] | [歴史は勝者が書く] | [漢献帝劉協(同じ「愍」)]
◀ 讒言が名将を殺す:[尉繚(秦の反間計)] | [信陵君(讒言で切られた英雄)]
◀ 趙という国:[和氏の璧(完璧帰趙)] | [桐葉封弟(晋=趙の源)] | [伝国璽(趙の璧の行方)]
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