はじめに
中国の戦国時代、秦の将軍・桓騎と、燕に亡命して始皇帝暗殺計画に協力した樊於期。この二人が実は同一人物ではないかという説が存在します。
人気漫画『キングダム』でも注目される桓騎の謎の最期と、悲劇の将軍・樊於期の関係について、史料を基に徹底検証していきます。
桓騎とは何者か
秦の天下統一を支えた名将
桓騎(かんき、正式には桓齮)は、始皇帝の天下統一事業において重要な役割を果たした秦の将軍です。
主な戦績
紀元前237年(始皇帝10年)
- 将軍に任命される
紀元前236年(始皇帝11年)
- 王翦、楊端和と共に趙の鄴を攻撃
- 周辺9城を占領し、王翦の指揮下で鄴と閼与を陥落
- その地に駐屯
紀元前234年(始皇帝13年)
- 趙の平陽と武城を占領
- 趙の将軍・扈輒を武遂で破り、趙兵10万を斬首する大戦果
紀元前233年(始皇帝14年)
- 上党から太行山脈を越えて趙の赤麗と宜安を攻撃
- 趙の名将・李牧と肥下で戦い、大敗
- 秦軍は撤退を余儀なくされる
紀元前229年(始皇帝18年)?
- 王翦に従って趙を攻めるが、再び李牧に敗れる
- この戦いで戦死したとする説がある
謎に包まれた最期
ここに大きな問題があります。桓騎の最期については、史料によって記述が異なるのです。
- 『史記』:肥下の戦いで大敗後、敗走したと記録
- 『戦国策』:李牧に討たれたとする
- 『資治通鑑』:敗北後に逃亡したと明記
この記録の曖昧さが、様々な憶測を生む原因となっています。
樊於期とは誰か
秦を裏切った悲劇の将軍
樊於期(はんおき)は秦の将軍でしたが、始皇帝の怒りを買い燕へ亡命しました。
樊於期が逃亡した理由については諸説ありますが、最も有力なのは「軍を少数精鋭化する政策に反対した」というものです。兵士のリストラに心を痛めた樊於期が、部下のために進言したところ、始皇帝の逆鱗に触れたとされています。
一族皆殺しと破格の懸賞金
始皇帝は徹底的な報復に出ました。
- 秦に残された樊於期の一族を皆殺し
- 樊於期の首に黄金一万斤と万戸侯の地位という破格の懸賞金
この異常なまでの懸賞金の高さは、単なる将軍への追及ではなく、何か特別な理由があったことを示唆しています。
始皇帝暗殺計画への協力
紀元前227年、燕の太子丹が画策した始皇帝暗殺計画において、樊於期は重要な役割を果たします。
刺客の荊軻は、用心深い始皇帝に謁見するために二つの条件を提示しました。
- 燕の督亢(肥沃な土地)の地図
- 樊於期の首級
荊軻から計画を聞いた樊於期は、涙を流してこう答えました。
「これこそ私が日夜、歯軋りし心を腐らせていたことです。今、ようやく教えを聞くことができた」
そしてその場で自刃し、一族の仇を討つ機会に自らの命を捧げたのです。
「桓騎=樊於期」説の根拠
楊寛の仮説
中国の歴史学者・楊寛は、著書『戦国史』の中で「桓騎は敗戦の処罰を恐れて燕に亡命し、樊於期と名を改めた」という大胆な説を提唱しました。
同一人物説を支持する5つの根拠
1. 史書における不自然な空白
『秦始皇本紀』には秦の将軍たちの記録が詳細に残されているにもかかわらず、樊於期については秦での活動が一切記録されていません。まるで突然現れた人物のように扱われています。
2. 時期の一致
- 桓騎が李牧に敗北:始皇帝14年(紀元前233年)
- 樊於期が燕に亡命:始皇帝17-18年(紀元前230-229年)
両者の時期が数年の範囲で重なっています。
3. その後の消息不明
桓騎は14年の敗北以降、秦の将軍として史書に再び登場することはありません。大敗後の処罰を恐れた逃亡であった可能性を示唆しています。
4. 発音の類似
中国語での発音を比較すると:
- 桓騎:huán qí
- 樊於期:fán wū jī
完全に一致するわけではありませんが、類似性があります。燕の方言による変化や、史書を記録する際の音訳の違いで、同一人物が異なる名前で記録された可能性があります。
5. 司馬光の記録
『資治通鑑』には重要な記述があります。
「秦軍は敗れ、桓騎は逃亡した」
さらに始皇帝が激怒し、「将軍の首に金千斤と一万戸を与える」という高額の懸賞金をかけたとされています。この懸賞金の内容は、樊於期にかけられたものと酷似しています。
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「桓騎≠樊於期」説の強力な反論
この魅力的な説には、しかし致命的な問題点が存在します。
反論①:秦の処罰方針との矛盾
秦は敗戦した将軍を厳しく罰することは稀でした。
通常は解任される程度で、一族全員を処刑するなどということは考えられません。桓騎が処罰を恐れて逃亡する理由は薄弱です。
反論②:李信と蒙恬の例
具体的な事例があります。
李信と蒙恬という二人の将軍が20万の軍勢を率いて楚を攻めましたが惨敗しました。しかし両名はその後も秦軍を率いて斉を攻めることができています。
桓騎もこのような秦の方針を理解していたはずで、敗北だけで逃亡する必然性はなかったと考えられます。
反論③:時系列の最大の矛盾
ここに決定的な問題が存在します。
『戦国策』の記述
「李牧は秦軍を幾度も破り、追い払い、秦の将軍桓騎を殺害した」
この記述が**始皇帝18年(紀元前229年)**の出来事を指しているとすれば:
- 桓騎の死亡:紀元前229年(18年)
- 樊於期の亡命:紀元前230-229年(17-18年)
- 樊於期の自刃:紀元前227年
もし桓騎が18年に戦死したのであれば、その後に樊於期として活動することは物理的に不可能です。
一方、桓騎の最後が14年の敗北後であり、『資治通鑑』の「逃亡した」という記述を採用すれば、時系列的には同一人物説が成立する余地があります。
史料の矛盾をどう読み解くか
矛盾①:桓騎は逃亡したのか、戦死したのか
- 『資治通鑑』:逃亡説
- 『戦国策』:戦死説
矛盾②:桓騎の最後はいつなのか
- 始皇帝14年(紀元前233年)説:肥下の戦い後
- 始皇帝18年(紀元前229年)説:再度の李牧戦
この二つの矛盾が、「桓騎=樊於期」説の真偽を決定づけるカギとなります。
可能性のあるシナリオ
シナリオA:同一人物説が成立する場合
- 桓騎は14年に李牧に敗北後、『資治通鑑』の記述通り逃亡
- 始皇帝は激怒し、一族を処刑、高額の懸賞金をかける
- 桓騎は燕に逃亡し、樊於期と名を変える
- 18年の記述は別の戦闘か、あるいは誤伝
シナリオB:別人説が正しい場合
- 桓騎は18年に李牧に討たれて戦死
- 樊於期は別の理由(政策への反対など)で逃亡
- 両者の時期の近さは偶然の一致
- 懸賞金の類似も偶然
『キングダム』での扱い
漫画『キングダム』では、桓騎と樊於期は明確に別人として描かれています。
- 樊於期:嫪毐の乱で毐国の将軍として登場、反乱失敗後に逃亡
- 桓騎:秦の六大将軍級の実力を持つ将軍として活躍、李牧との決戦へ
作者の原泰久氏は、史実の説を認識しながらも、物語上の展開として二人を別々のキャラクターとして設定したものと考えられます。
今後、桓騎が李牧に敗北した後、樊於期との接点が描かれる可能性も残されています。
私の結論
史料を総合的に検証した結果、以下のことが言えます。
確実に言えること
✓ 桓騎は李牧に敗北後、歴史から忽然と姿を消した
✓ 樊於期は秦を裏切り燕に亡命し、始皇帝暗殺計画に協力して自刃した
✓ 両者の時期は数年の範囲で重なっている
✓ 史料によって桓騎の最期の記述が異なる
同一人物説の評価
肯定的要素:
- 発音の類似性
- 時期の一致
- 懸賞金の類似
- 史書における樊於期の空白
否定的要素:
- 秦の処罰方針との矛盾
- 時系列の問題(18年戦死説を採用した場合)
- 直接的な証拠の欠如
- 『戦国策』の戦死記録
最終判断
現時点では確定的な結論を出すことはできません。
楊寛の説は発音の類似や時期の一致など、興味深い根拠を提示していますが、秦の処罰方針や史料の矛盾を考えると、確証には至りません。
最も重要なのは桓騎の最後の時期と状況を特定することですが、史料によって記述が異なるため、これ以上の検証は困難です。
ただし、可能性として完全に否定することもできません。もし新たな史料や考古学的発見があれば、この謎が解明される日が来るかもしれません。
参考史料
- 『史記』秦始皇本紀・廉頗藺相如列伝・刺客列伝
- 『戦国策』
- 『資治通鑑』
- 楊寛『戦国史』



