#斉王・田建(でんけん)は、「中華はいずれ一つになる」という理想を信じ、隣国に備えることをやめ、戦わずに国を失いました。史実・『戦国策』の逸話・漫画『キングダム』の描写・私の見立てを分けながら、「信じすぎた王」の悲劇を読んでいきます。
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若き即位と、賢母・君王后の摂政(史実)
田建(でんけん)、のちの斉王建は、紀元前264年、若くして斉の王位に就きました(生没年は不詳)。父は斉の襄王、母は、のちに「君王后(くんおうこう)」と呼ばれる賢夫人です。君王后は摂政として、秦とうまく付き合いながら斉の安定を保った、たいへん有能な人でした。史記も彼女を「賢にして、秦に事(つか)えて信あり」と評しています。
遺言を、遺せなかった母(戦国策の逸話)
その賢母の最期に、忘れがたい逸話があります(『戦国策』斉策)。病に倒れた君王后は、死の間際、建に「重く用いるべき臣は、これこれだ」と告げようとしました。建があわてて筆と木簡を用意し「書き留めます」と言ったそのとき——君王后は「老いぼれて、もう忘れてしまいました」と言い、結局その名を伝えぬまま、世を去ります。
国を長く支えた母が、最後の最後に「信じてよい臣のリスト」を遺しそびれた。誰を頼ればいいかの”正解”を持たないまま、建は放り出されたのです。この空白が、のちに効いてきます。
秦の対斉戦略——武力ではなく、友好と賄賂で
秦は、遠く東方の斉に対して、独特の手を打ちました。武力で攻めるより、友好・通商・そして賄賂で斉を手なずけ、斉が他の五国と同盟(合従)を組まないように工作したのです。
これが、みごとに効きました。斉と秦は交易で結ばれ、斉は「自分の領土でないところで戦争が起これば、金儲けができる」とばかりに、他国の戦争を傍観しながら利益を上げていく。斉王建も宮廷も、「秦を刺激しなければ攻められない」「秦と斉の友情は永遠だ」という甘い言葉を信じ、戦わずに享受する平和に、すっかり安堵していました。——ここには、秦という国の本質、「[戦争で金儲けができる(利で人を動かす)]」構図が、斉の側からも見えています。
后勝の裏切りと、退けられた「唇亡歯寒」
君王后が紀元前249年に世を去ると、その族弟(母方の身内)后勝(こうしょう)が執政となります。そして后勝は、秦から多額の賄賂を受け取っていたのです。
秦が東方の国々を次々に滅ぼすなか、諸国は何度も斉に助けを求めました。紀元前260年、秦が趙を長平で攻めたとき、食料の尽きた趙は斉に穀物を乞います。斉の臣・周子は説きました。
> 趙は斉にとっての防壁。歯にとっての唇のようなものです。唇が亡(ほろ)べば、歯は寒い(唇亡歯寒)。今日趙が滅べば、明日その災いは、斉に及ぶでしょう。
けれど斉は、この援助を断りました。記録に残る「唇亡歯寒」の警告を、最初に退けた瞬間です。のちに魏の使者が来ても、后勝は「秦が斉を裏切るはずがない。今、魏と合従すれば、秦の怒りを買うだけだ」と言って退ける。緩衝国(趙・魏・韓)が、一つ、また一つと消えていくのを、斉は自分から見殺しにしたのです。
『キングダム』の斉王建と、私の見立て
漫画『キングダム』は、斉王建を「中華全土を見すえた名君」「戦争は金を得るための仕事、という考えの人」として描きます。名君かどうかは議論の余地がありますが、彼の商業主義を、鮮やかにすくい取った解釈だと思います。
> 私の見立て——これは、理想を「信じすぎた者」の悲劇 斉は、自国の安全保障を「緩衝国が在り続けること」と「秦との友好」に、まるごと預けてしまいました。けれどその前提は、すべて他人の手の中にある。緩衝国が消えた瞬間に残ったのは、50万の兵を抱えながら、戦う構えも同盟も持たない、丸腰の大国でした。——なぜ、こんな無防備が可能だったのか。私は、建もまた始皇帝の「中華は、いずれ一つになる」という理想を、本気で信じていたのだと思います。やがて同じ国になる相手に、なぜ武器を向ける必要があるのか、と。思えば建は、賢く徳の高い母に守られて育った「良い母の、いい子」でした。人を疑うことを知らないまま、人を信じることだけを覚えて、王になった。だから始皇帝の理想も、素直に信じてしまった。彼の無防備は、愚かさというより、人の悪意を知らずに育った理想主義者の甘さ——そう見ると、この物語は、ぐっと切なくなります(この「一つの中華」という理想そのものについては→「[「中華は一つ」は理想か刷り込みか]」)。
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なぜ、后勝を信じ切れたのか——四つの条件
とはいえ、「甘かった」だけでは説明しきれません。これほど露骨に国を売った后勝を、なぜ建は最後まで信じたのか。史料を読むと、理由は一つではなく、四つの条件が積み重なっていたことが見えてきます。
① 母の威光を継いだ「身内」だった。 后勝は、あの賢母・君王后の一族。「母の身内なら、間違いない」——母への信頼が、そのまま后勝へ横滑りした。
② 母が「信じてよい臣」を遺せなかった。 あの臨終の空白です。正解を持たない建の隣に、ちょうど母方の身内・后勝が、すっと入り込んだ。
③ 「全員が同じことを言う」状態が、人工的に作られていた。 これが決定打です。后勝は多くの賓客(側近・客人)を秦へ送りました。ところが秦は、その賓客たちまで残らず買収し、彼らは口をそろえて「秦に従え、備えなど要らない」と建に勧めた。建からすれば、一人の佞臣を信じたのではない。独立しているはずの大勢の側近が、満場一致で同じことを言ってくる——これは、逆らうほうが難しい。実際には、その全員が秦の金で動いていたのですが。
④ 40年以上、平和が続いてしまった。 秦を刺激しない方針で、斉は半世紀近く戦火を免れた。「うまくいっている」という成功体験が、危機感を麻痺させた。
> 私の見立て——「心地よい満場一致」の罠 じつは、この「なぜ后勝を信じたのか」という私たちの疑問は、二千年以上前の斉の人々が抱いた疑問と、まったく同じでした。斉の滅亡後、人々はこんな歌を残します。「松よ、柏よ。建を共(きょう)の地に住まわせたのは、あの客(賓客)たちか」。史記も、これを「建が客を用いたことの不明(見識のなさ)を嘆いた歌」と記しています。——建は、悪人ひとりに騙されたのではない。母の威光・遺された空白・人工的な満場一致・長すぎた平和、この四つが重なったとき、人は「全員が同じことを言う、心地よい声」に、すすんで身をゆだねてしまう。独立したはずの声が、じつは一つの金で動いている——これは、戦国の昔だけの話には、思えません(人の心を突く戦い方については→「[魏美人と鄭袖(心を攻める)]」)。
最期——降伏という名の、破滅
紀元前221年、秦がついに斉へ兵を向けたとき、斉にはまだ50万の兵がありました。建は一度は抵抗を考えますが、后勝に相談のうえ、秦の使者の誘いに乗って、戦わずに降伏します。秦軍が臨淄に入っても、民は誰一人、抵抗しませんでした。
降伏した建に待っていたのは、約束された豊かな暮らしではありませんでした。彼は共(きょう)の地へ移され、松と柏の生い茂る林のなかに置かれ、食料も与えられず、やがて餓死します(伝承では、秦は五百里の地を約束しながら、それは足を休める場もない荒れ地だった、とも)。繁栄の宮殿から、松柏の茅屋へ。そこでようやく、彼は亡国の苦しみを知った——けれど、もう遅かったのです。
まとめ——「刺激しなければ攻められない」の、その先
斉王建の一生は、「平和ボケ」の教訓として語られがちです。たしかに、経済的な繁栄に酔い、周辺の変化を軽んじた危うさは、否めません。ただ、私はもう一歩、踏み込みたい。斉が滅んだのは、単に「備えを怠った」からではなく、「独立した声が、実は一つに買収されていた」ことに気づけなかったからでもあります。彼は「秦を刺激しなければ攻められない」と信じ、実際に刺激しなかった。それでも、攻められた。——理想を信じること、平和を願うことは、少しも間違っていません。けれど、その理想や平和の”前提”が、誰の手の中にあるのかは、ときどき、醒めた目で確かめる必要がある。二千年前の斉の人々が、松と柏に向けて歌ったあの問いは、たぶん、今も古びていないのです。
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◀ この王が信じた理想:[「中華は一つ」は理想か刷り込みか(始皇帝の統一)]
◀ 秦の「利」と「術」:[尉繚(戦争で金儲け・力で勝つ)] | [商於六百里(買収と詐術の外交)] | [魏美人と鄭袖(心を攻める)]
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