斉王建の一生
名前:田建 別名:斉王建、斉廃王、斉共王 在位:紀元前264年~紀元前221年
父:斉の襄王
母:斉の王妃(斉の安定に大きく貢献した徳の高い女性政治家)
斉の建王は15歳で即位。そのため当初は、母である斉王后が摂政をつとめ、一定の安定を保った。
秦は韓、魏、趙を攻撃する戦略をとったため、しばらくの間は平和を享受することができた。
しかし、治世の後半、斉の建王は大臣の后勝(秦から多額の賄賂を受け取っていた)の諫言に耳を傾け、秦に協力し、斉を孤立させた。
紀元前221年、秦は斉を攻め、斉の王建は后勝の諫言に従って秦に降伏し、斉は滅亡した。
秦王政は斉王建を荒れ地に置き、食料を与えなかったため、斉王建はやがて餓死した。
歴史的評価
斉王建の治世は、太后の支援によって斉の国は安定したものの、
政治的な先見性と決断力に欠け、無能無策、結局は斉の国を滅ぼすことになった。
キングダムでの評価
中華全土のことを考えた名君
戦争は金を得るための仕事という考えの人
秦と斉
秦は東方に遠く離れた斉に対して、主に友好、通商、賄賂の手段をとり、
斉を安定させ、東方六国が同盟しないようにさせた。
斉の最後の君主である建は、秦の統一によく協力し、双方は二国間貿易を発展させ、一日中金を稼いでいました。
自分の領土でないところで戦争が起これば、金儲けができるからです。
秦の東方五カ国(斉を除く)が滅ぼされた時、五カ国は何度も斉に助けを求めたのですが、
生き残りに必死な五カ国を見て見ぬふりをしていました。
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斉の国は半世紀近く戦争がなく、斉の建王は利益のことしか考えない無能な支配者になっていました。
秦の始皇帝から見れば、斉の王は温水の中の蛙であり、死が迫っていることにさえ気づいていなかったのでした。
斉の最後
秦の始皇帝が紀元前221年に燕を滅ぼし、兵を斉に向けたとき、斉の王にはまだ50万の兵がいました。
斉の建王は当初降伏を望んでいたが、城門の司令官に説得され、反乱を決意しました。
兵法によれば、敵を攻めるには敵の心臓を攻めるのが最善である。
秦軍が斉を攻めることにこだわれば、斉の50万は大軍です。。
秦王は「800の損失を犠牲にして1000の敵を殺す」という原則をよく知っていたため、斉に使者を派遣しました。
使者は斉王に会うと、「武器を捨てて降伏すれば、500里の領地を与える」
斉の建王は、后勝に相談しました。
これは適当な取引だと。
斉の建王は、ためらうことなく受け入れ、降伏しました。
秦の王は斉の王に500里の土地を与えましたが、それはすべて森で、足を休める場所さえなかった。
繁栄していた斉王の宮殿から松や檜の生い茂る荒れた田舎に茅葺きの小屋をいくつか置き斉の建王を移しました。
斉の建王はようやく亡国の苦しみを感じました。
斉の王はあまりの惨めさに洞窟で餓死し、悲しい生涯を終えました。
魏・韓・趙は斉の障壁でした。
しかしこの三国が滅ぼされた時、斉は実はその唇歯の冷たさを感じず、
秦から賄賂を受けていた大臣たちの欺瞞を信じ、「盗賊は我を愛すれども攻めず」と言って無策だったのでした。