漫画と史実で全く違う!昌文君の正体とは
人気漫画『キングダム』で政(後の始皇帝)の忠実な教育係として描かれる昌文君。温厚で献身的なキャラクターは多くのファンに愛されていますが、実は史実の昌文君は全く異なる人物だったことをご存知でしょうか?
今回は、漫画では語られない昌文君の真実の姿に迫ります。
昌文君は楚の王子だった
史実の昌文君プロフィール
- 出身:楚国の王族
- 生没年:不明~紀元前224年
- 身分:楚の高烈王の異母兄弟または親戚と推定
- 経歴:王位継承争いを避けて秦に亡命
『キングダム』では秦の生え抜き重臣として描かれていますが、実際は敵国・楚から逃れてきた亡命王子だったのです。
なぜ秦に亡命したのか?
昌文君が秦にやってきた理由は、楚国内の王位継承争いでした。
政治的混乱に巻き込まれることを恐れた昌文君は、秦への亡命を決断します。幸いなことに、昌文君の一族である雄氏は秦の王室と親戚関係にあったため、秦で官位に就くことができました。
昌平君との複雑な関係
昌文君を語る上で欠かせないのが、昌平君との関係です。
二人の関係性には複数の説が
昌平君:楚の高烈王の息子。母は秦の昭襄王の娘。後に秦の宰相を務めた。
昌文君:楚の高烈王の異母兄弟か親戚と推定される。
兄弟説
一部の学者は、二人とも楚の高烈王の息子で、昌平君が長男、昌文君がその弟と考えています。
叔父甥説
別の説では、昌文君が楚の高烈王の弟で、昌平君とは叔父甥の関係にあったとされています。
二人の対照的な最期
- 昌平君:紀元前225年、秦に反旗を翻し項燕に楚王として擁立されるも戦死
- 昌文君:紀元前224年に死去。反秦作戦には参加せず
同じ楚出身でありながら、最期は全く異なる道を歩んだ二人。その運命の分かれ道には、秦と楚の複雑な関係が影響していました。
昌文君の最大の功績:嫪毐の反乱鎮圧
昌文君の名が歴史に刻まれる最も重要な出来事が、紀元前238年の嫪毐(ろうあい)の反乱です。
反乱の発端
始皇帝の9年(紀元前238年)、政が成人式を行った際、空に彗星が現れるという不吉な前兆が起こります。
そんな中、長信侯嫪毐が謀反を企てていることが発覚しました。嫪毐は大胆にも王と太后の印章を盗み出し、以下の勢力を動員して皇宮への攻撃を計画します。
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反乱鎮圧メンバー
始皇帝は信頼できる重臣たちに反乱鎮圧を命じました。
- 宰相の呂不韋
- 昌平君
- 昌文君
楚から来た元王子でありながら、秦の国家危機において重要な役割を果たしたのです。
反乱の結末
昌文君らの活躍により反乱は鎮圧され、始皇帝は布告を出します。嫪毐一味を捕らえた者には多額の報奨金を与えるという策は功を奏し、嫪毐とその協力者たちは全員捕らえられました。
処罰の内容:
- 嫪毐とその仲間は斬首刑
- その一族は皆殺し
この功績により、昌文君は特別な称号を与えられ、秦における地位をさらに確固たるものにしました。
楚出身者の悲しい運命
始皇帝が楚の貴族を重用した理由
始皇帝が当初、昌文君のような楚の貴族を寵愛したのには理由がありました。
- 血縁関係:祖母である華陽太后が楚の女性だった
- 政治的バランス:朝廷内の権力バランスを保つため
統一後の冷遇
しかし、六国を統一した後、秦の朝廷は徐々に楚の影響力を排除していきました。
昌文君は紀元前224年に亡くなりますが、おそらく自然死と言われています。ただし、秦の国力が高まるにつれ楚出身者が冷遇されていく中での最期は、寂しいものだったと推測されます。
他の方のブログをみると、楚の皇子であった昌文君は、殺され、それに危機感をもった昌平君が反旗を翻したともありました。
始皇帝も征服最終局面にきたら、やはり、楚の皇子を抱えておくのは不安になってくると思います。
確かに昌文君の死んだ翌年に昌平君反乱ですのでその説には納得が行きます。
しかし、始皇帝は焚書坑儒をしたので、あまり史書が残っていなくて、わからないのです。
こうしてみると焚書坑儒は始皇帝の黒歴史を葬り去るのに有効だったのかもしれません。
全部灰にして新しく歴史をかきかえるつもりだったのでは。
まとめ:漫画と史実のギャップ
『キングダム』では政の忠実な教育係として描かれる昌文君ですが、史実では:
✓ 楚の王子という全く異なる出自
✓ 政の教育係であったという記録はない
✓ 王位継承争いから逃れた亡命者
✓ 嫪毐の反乱鎮圧で活躍した重臣
しかし、嫪毐の反乱での活躍を見ると、彼が初期の始皇帝の秦にとって欠かせない重臣だったことは間違いありません。