戦国時代末期、中国統一を目前に控えた秦の前に立ちはだかる最後の国の一つが斉でした。しかし、この国の運命を決定づけたのは、外敵の武力ではなく、内部の裏切りでした。その中心人物こそが、斉の建王の丞相を務めた后勝という男です。
金に目がくらんだ宰相 后勝
后勝は斉の建王に仕える丞相(斉の建王の母の弟)として、国政の中枢を担う重要な地位にありました。しかし、彼には致命的な弱点があったのです——金銭欲でした。
この弱点を見抜いた秦は、巧妙な戦略を展開しました。武力による征服の前に、まず敵国の中枢を内部から腐敗させることを選んだのです。秦は后勝に大金を送るため使者を派遣し、さらに彼の賓客や使用人にも頻繁に賄賂を送りました。
史書によると、后勝が受け取った賄賂の正確な金額は記録されていませんが、金や玉などの貴重品が「多量」あるいは「気前の良い賄賂」と表現されるほどの規模だったといいます。
祖国を売った決断をした后勝
秦の賄賂に買収された后勝は、斉王を説得して他の諸侯国への軍事支援を停止させました。これにより秦は、斉からの介入を恐れることなく、他の国々を次々と攻略することができました。
特に重大だったのは、五国が共同で秦を攻めるという重要な局面で、后勝の決断により斉が参加しなかったことです。この判断により、秦は分散することなく他国攻略に集中でき、中国統一への道筋を確実なものとしました。
戦わずに降伏をすすめた后勝
紀元前221年、ついに秦軍が斉に侵攻しました。しかし、后勝らの影響を受けた斉王建は、戦争準備を怠り、抵抗することなく降伏を選んだのです。こうして秦は中国統一を達成し、始皇帝による統一帝国が誕生しました。
后勝が堕落した三つの理由
1. 個人的な貪欲と権力の拡大
斉の宰相として、后勝は長きにわたり政務を掌握し、斉の建王を絶対的な支配下に置きました。彼の家臣や側近は皆、賄賂の受け取りに関与し、組織的な汚職ネットワークを形成していたのです。
2. 斉の近視眼的な政治戦略
后勝は「西方の強国秦と同盟を結び、近隣諸国に抵抗する」という政策を実行しました。これは、秦を利用して近隣諸国を威嚇することで斉の「独立安全保障」を確保できると考えたためです。しかし、これは致命的な誤判断でした。
3. 秦の組織的浸透戦略
秦は「三段階戦略」を採用しました:
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- 経済的腐敗:后勝とその家臣に金、銀、宝石を贈り、「斉における秦の代理人」に仕立て上げる
- 情報操作:「友好的な交流」を装い、斉の使節に機密を漏らさせ、「秦斉の友好」という誤った認識を植え付ける
- 心理的麻痺:斉への長期的な甘やかしは、危機意識の喪失と、いわば「ぬるま湯に浸かった蛙」のような衰退を招く
后勝の過ちと後世の評価
后勝の行為は、後世から厳しく糾弾されることになりました:
- 秦からの賄賂受け取り:国家の重臣でありながら、敵国からの金銭に屈服した背信行為
- 戦争準備の怠慢:適切な国防準備を怠り、侵略に直面した時に国を守れなかった責任
- 五国連合への不参加:他の諸侯国と連携して秦に対抗する最後の機会を逸した判断ミス
后勝は、個人の欲望と判断ミスによって国家を滅亡に導いた典型例として、歴史に名を刻むことになったのです。
謎に包まれた后勝の最期
興味深いことに、これほど重要な歴史的人物でありながら、后勝の最期については明確な史料が残されていません。いくつかの説が存在します:
- 斉王による処刑説:斉王建が后勝の裏切りに気づいた後、煮殺しの刑に処したとする説
- 秦による粛清説:秦の始皇帝が統一後、利用価値を失った后勝を処刑したとする説
- 民衆による報復説:斉の民衆に暗殺されたとする説
秦統一後、六国旧臣に対する組織的弾圧が秦によって行われました。たとえ生き残っていたとしても、その中で、悪名高い「斉の裏切り者」である后勝の運命がよいはずはありません。后勝は歴史書でも軽んじられたため、記述がないのです。これは軽蔑という名の無視だと思われます。
教訓としての后勝
后勝の物語は、個人の欲望が国家の運命をいかに左右するかを示す教訓として語り継がれています。金銭的誘惑に屈し、短期的な利益のために長期的な国益を犠牲にした彼の選択は、為政者が常に心に刻むべき戒めとなっています。
現代日本においても、この教訓は色褪せることがありません。権力を持つ者の倫理観と判断力が、いかに多くの人々の運命を左右するか(政治家のハニートラップや賄賂、平和ボケで日本はどうなっていくのでしょう)を、后勝の物語は語っていると思います。