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始皇帝が最も憎んだ男・樊於期 〜燕への亡命から壮絶な最期まで〜

戦国時代末期、中国統一を目前にした秦の始皇帝にとって、最も危険で憎むべき敵の一人がいました。

それが樊於期(はんおき、?-紀元前227年)です。

元は秦の将軍でありながら燕に亡命し、

最終的には荊軻の始皇帝暗殺計画のために自ら命を絶った彼の波乱に満ちた生涯を書きます。

秦の将軍から燕の亡命者へ

樊於期が燕に亡命した経緯については、史書に二つの説が記されています。

説① 趙遠征の敗戦による亡命

最初の説によれば、樊於期は趙への遠征で名将李牧に敗れ、

その罪を恐れて燕に逃れたとされています。

興味深いことに、彼は元々荊軻と友人関係にあったといいます。

説② 成蟜の反乱への加担

もう一つの説では、樊於期は長安君成蟜(せいきょう)の反乱に加担し、

敗れて燕へ亡命したとされています。

これは漫画『キングダム』でも採用されている設定です。

始皇帝の異常なまでの憎悪

いずれの説を取るにせよ、始皇帝の樊於期に対する憎悪は凄まじいものでした。

秦王は樊於期の一族を惨殺し、

彼の首に「金千貫、家一万軒」という破格の懸賞金をかけていました。

なぜここまで憎んだのでしょうか。

統治の正当性への挑戦

最も深刻だったのは、樊於期が成蟜と軍事を議論していた際に

「現在の秦王は前王の血筋ではなく、呂不韋の子である」と指摘したことでした。

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これは始皇帝の統治の正当性を根本から否定する発言で、絶対に許せるものではありませんでした。

さらに樊於期は成蟜に反乱を起こすよう促していたとされ、これが始皇帝の怒りに拍車をかけました。

将軍の裏切りへの怒り

また、秦の将軍が敵国に亡命するという行為自体が、始皇帝のメンツを大きく傷つけるものでした。

呂不韋との関係説

一部には、樊於期が呂不韋から謀反を起こすよう指示されていたという説もあり、

これが事実なら始皇帝の憎悪も理解できます。

荊軻暗殺計画への協力と壮絶な最期

始皇帝は燕に対し「樊於期の首を引き渡せ、さもなくば燕を攻撃する」

と最後通牒を突きつけました。

この危機的状況で、燕王喜は秦王暗殺のために荊軻を派遣することを決意します。

荊軻は始皇帝に近づくため、樊於期の首と燕の地図を献上品とするよう求めました。

しかし燕王喜はこの要求に渋りました。

この膠着状態を知った樊於期は、荊軻との私的な会話で全てを理解しました。

そして荊軻の始皇帝暗殺を成功させるため、躊躇することなく自ら命を絶ったのです。

歴史に残る忠義の死

樊於期の死は、単なる自殺ではありません。

秦の圧政から燕を守り、友人荊軻の大義を助けるための究極の犠牲でした。

皮肉にも、始皇帝が最も憎んだこの男は、

最期に最も美しい死を遂げることで、歴史にその名を永遠に刻んだのです。

 

 

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