※本サイトは、アフィリエイト広告を利用し収益を得て運営しています

樊於期(はんおき)史実 始皇帝が最も憎んだ男の壮絶な生涯

秦の将軍でありながら燕に亡命し、荊軻の始皇帝暗殺計画のために自ら命を絶った樊於期(はんおき)。

 

始皇帝が「金千貫・家一万軒」の懸賞をかけるほど憎んだ男の生涯と、その子孫の物語を詳しく解説します。

 

金千貫は今日では5億元以上日本円で110億円です。

 

戦国時代末期、中国統一を目前にした秦の始皇帝にとって、最も危険で憎むべき敵の一人がいました。

 

それが樊於期(はんおき、?〜紀元前227年)です。

 

元は秦の将軍でありながら燕に亡命し、最終的には荊軻の始皇帝暗殺計画のために自ら命を絶ちました。

 

樊於期の出自と家系

 

樊氏の祖先は、孔子の七十二弟子の一人である樊其(諱は子迟)に遡ります。

 

春秋時代後期の魯の国出身で、孝行と武勇で名を馳せました。

 

樊氏は、中原の有力な一族であり、樊於期は樊其の五代目にあたります。

 

秦宮廷の始皇帝曽祖父の後宮に樊氏の令嬢が入っていることからもわかるように名門です。

秦の将軍から燕の亡命者へ——二つの説

 

樊於期が燕に亡命した経緯については、史書に二つの説が記されています。

説① 趙遠征の敗戦による亡命

 

最初の説によれば、樊於期は趙への遠征で名将李牧に「肥の戦い」で敗れ、その罪を恐れて燕に逃れたとされています。<

 

成蟜(せいきょう)の反乱の数年後、樊於期は再び軍を率いて趙に攻め入ったが、

 

肥の戦いで趙の名将・李牧に敗れ、甚大な損害を被った

 

秦の厳格な軍法では、敗れた将軍は厳罰を免れることはできなかった。

 

責任を恐れた樊於期は軍を放棄して逃亡し、最終的に燕の太子丹のもとに身を寄せた。

 

この行為は軍事的な敗北であるだけでなく、秦の軍制への完全な裏切りでもあった。

 

かつて高く評価されていた将軍であった樊於期の逃亡は、情報の漏洩と士気の崩壊を意味し、

 

他の六国に「反秦」感情の象徴を与えることになった。

 

説② 成蟜の反乱への加担(漫画『キングダム』採用の設定)

 

もう一つの説では、樊於期は長安君成蟜(せいきょう)の反乱に加担し、敗れて燕へ亡命したとされています。

 

これは漫画『キングダム』でも採用されている設定です。

 

紀元前240年、秦の将軍樊於期は嬴政の弟・長安君成蟜を援軍として趙国に侵攻した。

 

当時、嬴政はまだ幼く、朝廷は呂不韋によって掌握されていた。

 

嬴政は秦の荘襄王の実子ではなく、呂不韋の子であるという噂が広まっていた。

 

樊於期はこのデリケートな話題に乗じ、成蟜に「秦王は第一王子ではなく、その血統は非嫡出だ。

 

汝こそが正当な後継者だ」と告げた。

 

さらに布告を起草して広く頒布し、嬴政は「秦の王家の血筋ではない」と宣言し、

 

官僚たちに成蟜を王として支持するよう煽動したとされる。

始皇帝の樊於期に対する異常なまでの憎悪

 

いずれの説を取るにせよ、始皇帝の樊於期に対する憎悪は凄まじいものでした。

 

秦王は樊於期の一族を惨殺し、彼の首に「金千貫、家一万軒」という破格の懸賞金をかけました

 

なぜここまで憎んだのでしょうか。主な理由は三つ挙げられます。

広告

① 統治の正当性への挑戦

 

最も深刻だったのは、樊於期が成蟜と軍事を議論していた際に「現在の秦王は前王の血筋ではなく、呂不韋の子である」

と指摘したことでした。

 

もともと荘襄王は成蟜を皇太子にする予定でしたが、夏太后が勢力をもつことを恐れた一派と呂不韋の力により嬴政が王

になったのです。

 

これは始皇帝の統治の正当性を根本から否定する発言であり、絶対に許せるものではありませんでした

 

さらに樊於期は成蟜に反乱を起こすよう促していたとされ、これが始皇帝の怒りに拍車をかけました。

② 将軍の裏切りへの怒り

 

秦の将軍が敵国に亡命するという行為自体が、始皇帝のメンツを大きく傷つけるものでした。

 

さらに軍事的情報が漏洩しますし、兵士の士気にも影響します

③ 呂不韋との関係説

 

一部には、樊於期が呂不韋から謀反を起こすよう指示されていたという説もあります。

 

これが事実なら、始皇帝の呂不韋と樊於期への怒りがわきます。

 

呂不韋はまだ、今切るわけにはいきませんので、まず樊於期を処分したいところです

 

荊軻の暗殺計画への協力と壮絶な最期

 

始皇帝は燕に対し「樊於期の首を引き渡せ、さもなくば燕を攻撃する」という最後通牒を突きつけました。

 

この危機的状況で、燕王喜は秦王暗殺のために荊軻を派遣することを決意します。

 

荊軻は始皇帝の間近に近づくため、樊於期の首と燕の地図を献上品とするよう求めました。

 

樊於期が始皇帝の心の中で十分な重みを持ち、暗殺者である自分が樊於期の首さえあれば邪魔されることなく王に近づく

ことができると考えたからです。

 

しかし燕王喜はこの要求に難色を示しました。

 

この膠着状態を知った樊於期は、荊軻との私的な会話で全てを理解しました。

 

そして荊軻の始皇帝暗殺を成功させるため、躊躇することなく自ら命を絶ったのです。

 

樊於期が自決できたのは、荊軻が燕国の存続と天下のために暴政に抵抗しようとしており、

 

かつ暗殺を実行できる能力があると信じていたからです。

 

それは長年の交流を通して築かれた深い信頼関係によるものでした。

 

燕に亡命した後、荊軻と樊於期は接触していました。

 

「読書と剣術を好み、諸侯の間を旅していた」荊軻に対し、秦からの逃亡将軍である樊於期は孤立しており、

 

政治的な保護と精神的な共鳴を切実に必要としていました。

 

共通の反秦の立場と騎士道精神から始まった二人の出会いは、やがて親しい友情へと発展していました。

歴史に残る忠義の死

 

樊於期の死は、単なる自殺ではありません。秦の圧政から燕を守り、

 

友人荊軻の大義を助けるための究極の犠牲でした。

 

皮肉にも、始皇帝が最も憎んだこの男は、最期に最も美しい死を遂げることで、歴史にその名を永遠に刻んだのです。

樊於期の子孫——父の復讐を果たした息子

 

秦王によって樊於期の一族が処刑された際、彼の息子(当時10歳前後)は辛くも逃亡に成功しました。

 

貧しく潜伏しながら生き延びた息子は、劉邦が挙兵した紀元前209年には50歳前後となっていました。

 

劉邦と親しくなり、その将軍となって秦を討伐——父が命を懸けて抵抗した秦への復讐を、息子が果たしたのです。

 

¥220 (2026/02/07 18:49時点 | Amazon調べ)
¥220 (2026/02/07 18:50時点 | Amazon調べ)

広告

中国ドラマ

広告