芈月(ミーユエ)の本当の出自
中国ドラマ『ミーユエ〜王朝を照らす月〜』で優雅な王女として描かれた芈月(宣太后)。しかし、歴史上の彼女の実像は、ドラマとは大きく異なるものでした。
実は芈月は楚の王女どころか、貴婦人ですらなかったのです。
史料には「芈月」という記述は一切ありません。彼女は「芈八子」と呼ばれていました。
「芈」は楚の王族の姓ですが、「八子」は宮廷における側室の最低位の称号。
つまり、彼女のスタート地点は、テレビドラマで描かれていたよりも遥かに低い位置だったのです。
秦恵文王との年齢差12歳の結婚
芈月は紀元前344年頃に生まれ、秦恵文王・嬴驷(紀元前356年生まれ)とは約12歳の年齢差がありました。
彼女は持参の侍女として秦国に入り、後宮第五位の「芈八子」に封じられます。
その後、秦恵文王との間に三人の息子をもうけ、その中には後の秦昭襄王・嬴稷も含まれていました。
衝撃の下品発言「韓救援拒否事件」
芈月の実像が最も表れているのが、韓からの救援要請を断った時のエピソードです。
当時、楚に包囲された韓は秦に援軍を要請しました。
しかし、楚出身の芈月は軍を派遣することに難色を示し、極めて下品で露骨な例えを用いて拒絶したのです。
宣太后の衝撃的な発言内容
韓の使節に対して、芈月はこう言い放ちました。
「私が先王に仕えていた時、彼が私の体に太ももを乗せてくれた時は、私は少し困ってわずらわしく思いました。しかし、彼が全身を私の上に乗せてくれた時は、重く感じませんでした。なぜでしょう?それは私の利益になると思ったからです。」
この露骨な性的比喩は、韓の救援には莫大な費用がかかり、秦には目に見える利益がなければ軍を派遣しないという意味でした。
韓の使者はその場で顔を赤らめ、非常に気まずい状況になったと記録されています。
冷酷な権力者
ドラマでは優しく描かれることも多い芈月ですが、現実の彼女は、
テレビで描かれていたよりも遥かに冷酷だったのです。
政治的功績と冷酷な手段
内乱平定の手腕
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- 秦の武王が鼎を持ち上げて死亡した後、弟の魏冉と結託して政変を起こす
- 政敵である公子嬴壮を誅殺
- 息子である嬴稷を擁立し即位させる
- 中国史上初めて、太后が朝廷を執り行う先例を創出
義渠国滅亡の策略
- 西方の脅威を排除するため、義渠王と密通して子までもうける
- その後、甘泉宮で義渠王を誘い出して殺害
- これを機に義渠を併合し、隴西など三郡を設置して秦の領土を大幅に拡大
治世のスタイル
- 外戚の魏冉・芈戎らを重用
- 法治を推進して中央集権を強化
- 下品な例えを使ってでも、秦の国益を最優先
晩年の論争と騒動
長期にわたる摂政は、秦昭襄王との関係悪化を招きました。
晩年には范雎によって太后の地位を廃位されることになります。
さらに、愛人である魏丑夫に殉葬を要求するという騒動を起こしますが、大臣の諫言により中止されました。
ドラマとの最大の違い:芈姝との関係
ドラマでは芈姝と芈月は楚の王女姉妹として描かれていますが、これは完全な創作です。
歴史上の恵文后(芈姝のモデル)は、楚国出身ではなく魏国出身。
魏国の王女として政略結婚により秦に嫁ぎ、嬴驷との間に息子・嬴蕩(後の秦の武王)をもうけました。
歴史上の恵文后と宣太后(芈月)には、血縁関係も姉妹関係も一切存在しません。
歴史的影響:秦始皇帝への道を開いた女性
芈月は41年間執政し、政治的婚姻・軍事手段・改革を通じて、秦始皇帝の六国統一への道を開きました。
その事績は『史記』『戦国策』に記録されていますが、義渠王との関係など一部の詳細には芸術的加工が施されています。
まとめ:下品でも現実的、冷酷でも有能だった宣太后
ドラマの優雅な王女像とは異なり、実際の芈月は:
- 側室最低位からスタートした成り上がり者
- 下品で露骨な性的比喩を使う現実主義者
- 優しさと冷酷さを併せ持つ権力者
- 秦の国益のためなら手段を選ばない政治家
彼女の下品な発言や冷酷な行動は、現代の倫理観では批判されるべきものかもしれません。
しかし、その現実的な外交と政治手腕によって、秦の国力を大きく高めたことは紛れもない事実です。
芈月(宣太后)は、美化されたドラマの世界ではなく、権謀術数渦巻く戦国時代を生き抜いた、真の実力者だったのです。



