紀元前307年、秦の武王が鼎を持ち上げる際の事故で突然死去しました。
後継者がいなかったため、激しい王位継承争いが勃発しました。
主な候補者は、恵文王の庶長子である公子壮、そして燕国に人質として送られていた弟の公子稷(後の昭襄王)らでした。
ドラマでは公子稷(後の昭襄王)の正当性をつけるためにさまざまな創作が加えられています
公子壮について
身分と背景
- 秦の恵文王の庶長子で、母は魏国出身の恵文后
- 秦の武王と昭襄王の異母兄
- 長子として一定の優位性を持つも、庶子であったため継承の主要候補ではなかった
王位継承の展開
公子稷の即位
公子稷は当時燕国に人質として滞在していたが、強力な支援者を得て王位継承に成功する。
- 母・宣太后(芈八子)(ミーユエ)の支持:息子を王位につけるため積極的に行動
- 魏冉の軍事的支援:宣太后の異母弟である魏冉が内応者として活躍
- 趙の武霊王の後押し:「親趙」の秦君主を支援する目的で、公子稷を燕から秦へ護送
魏冉は咸陽で他の競争相手を排除し、公子稷を即位させることに成功した。
季君の乱の勃発
反乱の理由
紀元前305年、公子壮は不満を爆発させる。
- 弟の公子稷が即位したことへの不満
- 宣太后と魏冉による楚の外戚グループの権力掌握への反発
- 秦の旧貴族や嬴姓宗室は疎外された
公子壮は「季君」を自称し、母の恵文后や一部の大臣、諸侯と結託して反乱を起こした。
反乱の鎮圧
魏冉は「外戚・将軍・咸陽守備」という立場を背景に、迅速かつ徹底的に反乱を鎮圧した。
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- 公子壮は処刑
- 恵文后は自死に追い込まれる
- 支持者である宗室・公子・旧貴族は誅殺
- 武王后は魏国へ追放
この血みどろの鎮圧は、秦国における旧貴族勢力の完全な粛清を意味した。
宣太后と魏冉の権力掌握
彼らの戦略
- 政治的動機:楚の外戚として、秦の旧貴族や嬴姓宗室を封じ込める
- 実質的支配:幼い昭襄王を擁立し、宣太后が太后として摂政、魏冉が将軍として軍事を掌握
- 人材登用:軍功爵制を推進し、白起のような平民出身の人材を積極的に登用
- 外交戦略:宣太后は楚出身の経歴を活かし、楚の懐王と同盟を結び東方情勢を安定化
歴史的意義
季君の乱の鎮圧により、宣太后と魏冉は秦国の権力を完全に掌握した。
二人の共同統治は、後の秦による中国統一に向けた重要な基盤を築くこととなった。
軍功爵制の推進と平民登用、そして戦略的な外交政策は、秦を強大な国家へと変貌させる原動力となりました。
ドラマ『芈月伝』(ミーユエ)との違い
秦の昭襄王(在位:紀元前306年-前251年)が燕に人質として送られていたのは、王になる前、つまり紀元前310年代頃。
この頃は秦は戦国7雄となっており、人質というよりも、単に外国駐在経験を踏ませる意味合いが強く、実際は燕で丁寧な扱いを受けていた。
ミーユエは子供に帯同していない。
公子稷(後の昭襄王)は燕と趙によって未来の秦王として支持されていたので、秦まで丁寧に連れていってもらえた。
だから燕でのミーユエと稷の苦労話は創作
公子稷(後の昭襄王)の秦への帰国時に義渠君や黄歇が関与していたのは創作
羋茵は創作キャラクター
黄歇とミーユエとのロマンスも創作
遺詔も公子稷の正当性をつけるための創作



