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ドラマ『ミーユエ』の孟嬴は実在した!? 秦恵王の娘と燕太子の政略結婚の真実

中国の歴史ドラマ『ミーユエ』に登場する「孟嬴」。彼女は実在の人物ですが、その本当の名前は歴史の中に埋もれています。今回は、ドラマと史実を比較しながら、戦国時代の政略結婚の実態に迫ります。

史書に記された秦恵王の娘

『史記』燕召公世家には、「秦惠王以其女為燕太子婦」(秦の恵王がその娘を燕の太子の妻とした)という明確な記録があります。

史書では彼女は「燕易后」と呼ばれており、後に燕昭王として即位する公子職の母として知られています。

ドラマと史実の違い

ドラマでの描写

  • 50過ぎの老いた燕王との結婚
  • 蘇秦との恋愛関係
  • 韓や趙での人質体験

史実

実際には、彼女は**燕太子(後の燕易王)**と結婚しました。燕易王は父王の死後に即位し、12年間在位しています。ドラマのような「よぼよぼのじいさんとの無理やりの結婚」ではなかったと考えられます。

ただし、蘇秦との関係や人質体験などは脚色であり、史実の裏付けはありません。

婚姻の歴史的背景

時期と状況

  • 時期: 紀元前320年代(燕文公28年頃)
  • 秦の君主: 秦恵文王(在位:紀元前337-311年)
  • 目的: 秦と燕の同盟関係強化

この時代は戦国七雄がまだ比較的拮抗していた時期で、秦と燕は対等な関係での婚姻外交を行っていました。

張儀と蘇秦 ー 二つの外交戦略の対立

この婚姻が行われた背景には、戦国時代を代表する二大外交戦略の激突がありました。

蘇秦の「合従策」

  • 六国(燕・趙・韓・魏・斉・楚)が団結して秦に対抗
  • 燕は合従同盟の一員として秦と敵対する立場

『史記』によると、燕文公28年に蘇秦が初めて燕に来て文公を説得し、文公は蘇秦に車馬や金銭を与えて趙に送り出しました。蘇秦は趙の肅侯に用いられ、六国の合従を成立させて合従長となりました。

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張儀の「連横策」

  • 秦が各国と個別に同盟を結び、六国の団結を崩す
  • 秦と燕の婚姻はまさにこの連横策の一環

興味深いことに、秦恵王の娘が燕太子の妻となったのは、蘇秦が燕に来たのと同じ年のことでした。

燕の二股外交

燕文公は同じ時期に、蘇秦を支援して合従に参加しながら、秦とも婚姻関係を結んでいます。これは北方の弱小国である燕が、生き残りのために両方の陣営と関係を保とうとした証といえるでしょう。

婚姻の戦略的意味

  1. 秦の狙い: 燕を合従同盟から引き離す
  2. 燕の生存戦略: 両陣営の間で慎重に立ち回る
  3. 重大な政治的決断: 単なる婚礼ではなく、国家の命運を左右する外交カード

ドラマの中で描かれた「この婚礼に行かなくては、城壁から身を投げるしかない。王族の男は戦場に行く、王族の女もまた婚姻という戦場に行かなくてはならない」という台詞は、まさにこの政略結婚の本質を表現しています。

彼女の息子 ー 燕昭王

秦恵王の娘は公子職という息子を産みました。この公子職こそ、後に燕の名君として知られる燕昭王です。

燕王噲の内乱後、紀元前313年に子之を倒して燕を立て直し、燕昭王として即位した彼は、後に楽毅を用いて斉を攻め、燕の最盛期を築くことになります。

まとめ

『ミーユエ』の孟嬴は、実在の秦恵王の娘をモデルにしたキャラクターです。ドラマでは蘇秦との恋愛や悲劇的な結婚が描かれていますが、史実では燕太子との政略結婚であり、その息子は後の名君・燕昭王となりました。

この婚姻は、張儀の連横策と蘇秦の合従策が激しく対立していた時代の産物であり、弱小国・燕の生き残りをかけた外交戦略の一環でした。

王族の女性たちにとって、婚姻はまさに「戦場」だったのです。

 

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