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商鞅の野望と悲劇 – ドラマ「ミーユエ」から見る戦国時代の権力闘争

テレビドラマ「ミーユエ」の冒頭に登場する商鞅。

秦の孝公に仕えた法家の思想家として知られる彼の生涯は、野望と裏切り、

そして皮肉な結末に彩られた壮絶なものでした。

今回は、商鞅がなぜ魏の安邑を狙い、どのような末路を辿ったのかを見ていきましょう。

なぜ安邑だったのか – 塩と鉄という戦略物資

商鞅が恵文王贏駟の父である孝公に対し、魏の安邑攻めを熱心に進言した理由は明確でした。

安邑は塩と鉄という二つの重要な資源が採れる土地だったからです。

塩の価値

塩は人間の体に不可欠な栄養素であり、代替のきかない貴重な物資でした。

古代において塩の確保は、国家の生存に直結する重要な課題だったのです。

鉄の戦略的意義

鉄はさらに多面的な価値を持っていました:

  • 軍事面: 武器の製造に必要不可欠
  • 農業面: 農作業用具を作ることで耕作効率が向上し、農業生産量が飛躍的に上がる
  • 土木面: 道路建設などのインフラ整備用工具の製造が可能

これらの重要性から、当然のことながら塩と鉄の取引は莫大な利益をもたらしました。

商鞅の戦略眼は、この経済的価値を見抜いていたのです。

親友への裏切りと魏攻略

商鞅の安邑攻略は、冷酷な計略によって実行されました。

まず、魏に贏夫人(恵文王贏駟の姉)を嫁がせることで魏の内部情報を入手。

そして紀元前340年、ついに魏への侵攻を開始しました。

最も衝撃的だったのは、かつて親友であった魏の総大将を欺いて招き、これを捕虜にしたことです。

この裏切りによって魏軍を打ち破り、黄河以西の広大な土地を奪取することに成功しました。

この脅威を前に、魏は首都を安邑から東の大梁(現在の開封)へと遷都せざるを得ませんでした。

商鞅の戦略は完全に功を奏したのです。

この功績により、商鞅は商・於という土地を与えられ、絶大な権力と富を手に入れました。

傲慢さが招いた復讐の連鎖

しかし、栄華は長くは続きませんでした。

商鞅の失脚には、彼自身の行いが大きく関わっていたのです。

恨みの種を蒔いた過去

恵文王の守り役(教師役)は、

かつて商鞅によって鼻そぎの刑罰という屈辱的な処罰を受けていました。

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この残酷な刑罰への恨みは深く、復讐の機会を虎視眈々と狙っていたのです。

知人の忠告を無視した傲慢さ

商鞅は絶大な権力と富を手に入れると、おごりたかぶるようになり、

知人からの忠告にも耳を貸さなくなっていました。

周囲の人々が危険を警告しても、自らの力を過信して聞く耳を持たなかったのです。

復讐の時

紀元前338年、孝公が没して恵文王が王位に就くと、ついに復讐の時が来ました。

恵文王の守り役の一党は商鞅が謀反を図っていると訴え、

商鞅は追われる身となってしまいました。

これは単なる政治的陰謀ではなく、過去の恨みに基づいた計画的な復讐だったのです。

法の創造者が法に裁かれる皮肉

逃亡の途中、関所近くで宿屋に泊まろうとした商鞅でしたが、

宿屋の者から思わぬ言葉を聞かされます。

「商鞅様の法令で、旅券を持たないお方はお泊めしてはいけない法律ということになっております」

自分が作った法律によって宿を拒まれた商鞅は、深い溜息とともにこう嘆きました。

「法を為すの弊、一にここに至るか」

(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)

この場面は、ドラマ「ミーユエ」第1話でも印象的に描かれており、

法家思想の権化とも言える商鞅の人生の皮肉を象徴的に表現しています。

悲劇的な最期

その後、商鞅は捕らえられ、車裂きの刑という残酷な処刑方法で生涯を終えました。

商鞅の生涯は、戦国時代という乱世における権力闘争の典型例と言えるでしょう。

優れた戦略眼と冷酷な実行力で一時は頂点を極めたものの、

過去に蒔いた恨みの種と自らの傲慢さによって足元をすくわれ

最終的には自らが作り上げたシステムによって滅ぼされる。

この皮肉な結末は、権力の本質と人間の業の深さ、そして「因果応報」の恐ろしさを物語っています。

権力者が陥りがちな傲慢さと、過去の行いが後に復讐として返ってくる教訓は、

現代にも通じる普遍的なテーマと言えるでしょう。

「ミーユエ」というドラマを通じて、

このような歴史上の人物の複雑な人間性を垣間見ることができるのも、

中国歴史ドラマの魅力の一つと言えるでしょう。

 

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