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秦 恵文王 贏駟(紀元前337ー311在位)東方進出と六国分割戦略の鍵を握る ドラマ:ミーユエより

贏駟の意味は

贏駟とは黒い馬という意味です。

実際の恵文王は逞しく、勇猛果敢で戦では疾風の如く駆け巡ったので失踪する馬と呼ばれていました。

恵文王とは亡くなった後の諡(おくりな)です。

恵文王 魏から多くの土地を割譲させる

紀元前330年、秦は魏を攻撃し、多くの地域を占領しました。

これにより、秦は魏から多くの地域を割譲させることができ、東進の拠点を確立しました。

恵文王に対抗するため魏・趙・韓・燕・楚 同盟を組む

秦の東方進出と張儀の戦略は、東方諸国にとって重大な脅威でした。

紀元前318年、 魏・趙・韓・燕・楚の五国は同盟を結んで秦国を攻めました。

魏は、同盟軍を補完するため、秦を背後から攻撃する義渠にも連絡しました。

しかし連合軍にはそれぞれの思惑があり、一枚岩ではありませんでした。

楚と燕は当分秦に脅かされることはなかったのでそれほど乗り気ではありませんでした。

魏・趙・韓の軍だけが秦軍と戦い、敗れました。

その後それぞれの国へ帰り ました。

秦、韓・趙連合軍と戦う

翌年(紀元前317年)、秦は将軍の樗里疾を派遣して軍を率いて函谷関から反撃しました。

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韓趙連合軍と戦い、8万の首を切りました。

連合軍の残党は逃げ出し、東国は恐怖に陥入りました。

恵文王 蜀と巴を攻める

恵文王9年(紀元前316年)、秦は蜀を攻め、蜀と巴を手に入れました。

この時、東方が手薄になってしまいますので、趙と密約を結びました。

趙が秦に攻めない代わりに、趙が斉の土地を奪うのを黙認する。

恵文王 斉と楚の同盟を壊してから楚を攻める

恵文王の13年(紀元前312年)、秦から張儀を楚に派遣し、楚の邪魔をして斉からの離反を誘いました。 秦軍は楚軍を破り、楚の地である漢中を獲得しました。

恵文王 関中・漢中・巴蜀を手にいれ圧倒的に有利な立場に

こうして、

・秦の関中(咸陽を中心とする渭水盆地で黄河の上流)

・漢中(漢水上流の盆地)

・巴蜀(長江の上流)

の3国が統合され、秦国は6国に対して高い位置で圧迫的な立場を形成しました。

それぞれの河の上流を抑えたので、楚、韓、魏を圧迫する事ができます。

恵文王は軍事的勝利を収め領土を拡大しただけでなく、張儀の合従崩し連衡の戦略を取り入れ、六国を分割して一つずつ崩していくことに成功していくことになります。

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