> ※この記事は「草原の帝国」シリーズの一篇です。これまで馬と弓の遊牧民(→「[冒頓単于]」「[突厥]」「[回鶻]」)を見てきましたが、草原の世界には、もう一本の柱がありました。ソグド人——シルクロードの交易を握った商業の民です。突厥がビザンツと結んだのも、回鶻が絹馬交易で栄えたのも、その裏には必ずソグド商人がいた。馬の民と、商いの民。この二本柱で、草原の帝国は立っていたのです。
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ソグド人とは
ソグド人は、現在のウズベキスタンからタジキスタンにまたがるソグディアナ地方——サマルカンドやブハラを中心とする地域——を故郷とする、イラン系の民族です。
彼らは「隊商の民」と呼ばれ、シルクロードの東西交易を一手に担いました。
中国に移り住んだソグド人は、出身地に応じた漢字一字の姓を名乗りました。これを「昭武九姓(しょうぶきゅうせい)」といい、
たとえば康(こう)はサマルカンド(康国)、
安(あん)はブハラ(安国)、
史はシャフリサブス(史国)、
石はタシュケント……というように、姓を見れば出身地がわかる仕組みでした(この姓が、のちに安史の乱の主役たちにつながります→「[安禄山・安慶緒と安史の乱]」)。
商才の民——蜜と膠の逸話
ソグド人の商才を物語る、忘れがたい逸話があります。彼らは赤ん坊が生まれると、その口に蜜(はちみつ)を、手に膠(にかわ)を塗ったといいます(『旧唐書』などに見える話です)。意味はこうです
——口は、蜜のように甘い言葉で商売をするように。手は、膠のように、一度握った金を決して離さないように。生まれた瞬間から、商人としての心得を願う風習でした。
彼らがどれほどの利を上げたか。長安で仕入れた品が、西方ではけた違いの高値で売れたと伝わります(数字には誇張もあるでしょうが、東西の価格差が莫大な利を生んだことは確かです)。この富こそ、ソグド人の力の源泉でした。
> 「甘い言葉」という、もう一つの糸 ソグド人が赤子に願った「蜜の口=甘言」。じつはこのシリーズで、もう一度「甘い言葉」が出てきます。
突厥の[闕特勤碑]に刻まれた、「漢人の甘い言葉と柔らかな絹に惑わされるな」という警告です(→「[突厥]」)。
草原では、商人は甘言を武器とし、戦士は甘言を警戒した。同じ「甘さ」をめぐる、二つの知恵が、草原の上で交わっていたのです。
商才の源流——アレクサンドロスの東方遠征
では、ソグド人のこの並外れた商才は、どこから来たのでしょうか。その遠い背景に、アレクサンドロス大王の東方遠征があった、と考えてみたくなります(ここはやや大きな見立てですが、東西をつなぐ道が開かれた意味は大きい)。
アレクサンドロスは紀元前356年、マケドニアの都ペラに生まれ、哲学者アリストテレスに学び、前336年に王となります。その遠征の足どりは——
– 前333年、イッソスの戦い(陸戦)でペルシア軍を破る。
– 前332〜331年、エジプトに入り、アレクサンドリアを建設。
– 前331年、ガウガメラの戦いに勝ち、バビロンを得て莫大な富を手にする。
– 前330年、ペルセポリス入城。以後ペルシア風の儀礼を取り入れ、マケドニア人の反発も招く。
– 前329年、ソグディアナの北にアレクサンドリア・エスハテを建設(北方スキタイへの備えとなるギリシア人入植地)。
– 前327年、バクトリアの貴族の娘ロクサネを妻に迎え、部下にも現地の人との結婚を奨励した。
行く先々に都市を築き、ギリシア人を入植させたこの遠征は、東西文化の融合(ヘレニズム)の礎を据えました。各地を結ぶ通商路が開かれ、人と物と情報が行き交うようになった——その大きな流れの中で、ソグド人は「何を、どこへ運べば儲かるか」という知をたくわえ、商業民族として羽ばたいていったのではないか。彼らの故郷バクトリア・ソグディアナは、まさにアレクサンドロスが歩み、ギリシア文化が根づいた土地でした。
商業ネットワーク——「ソグド商社」
ソグド人の交易は、孤立した行商ではありませんでした。彼らはシルクロード沿いの各地に聚落(コロニー)を築き、互いに結びついた巨大な商業ネットワークを張りめぐらせていました。その範囲は、イラン・インド・中央アジア・モンゴル高原・中国にまで及びます。
集団を束ねる長は「薩寶(さほう/サルトパウ)」と呼ばれ、唐はこれを公式の役職としても認めました。いわば、国境を越えた「ソグド商社」が、ユーラシアの東西をつないでいたのです。
そしてこのネットワークは、草原の帝国と深く結びついていました。
六世紀、突厥がソグディアナを支配下に置くと、ソグド人は突厥の外交と交易のブレーンとなり、[室点蜜]がビザンツと結んでシルクロードを制しました。(→「[突厥]」)。
のちに[葛勒可汗]がソグド人と漢人を住まわせて交易都市バイ・バリクを築き、[回鶻]が絹馬交易で栄えたのも、同じ流れの上にあります。
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馬の民が道の安全を保証し、ソグド商人がその道で富を運ぶ——草原の帝国は、この分業で回っていたのです。
そしてこの網の東のいちばん端は、長安・洛陽を越えて、幽州(現在の北京)や営州(現在の遼寧省朝陽)——華北の東北のはずれにまで届いていました。
唐が、不安定な国境の営州に「商胡(=ソグド商人)」を移り住ませた記録も残ります。
じつは、安史の乱を起こす安禄山と史思明が拠点にしたのが、この営州・范陽(幽州=北京)でした。ソグド網のいちばん東の端っこから、あの大乱の主役は立ち上がったのです(→「[安禄山・安慶緒と安史の乱]」)。
なぜ人は、険しいオアシスの道を選んだのか
ここで、素朴な疑問を一つ。地図を見れば、北の「草原の道」のほうが、はるかに平らで楽です。なのに、なぜ絹の隊商は、わざわざ南の——タクラマカン砂漠を縁づたいに回り、パミール高原を越える——険しい「オアシスの道(シルクロード)」を選んだのでしょうか。理由は、いくつも重なっています。
① 平らな草原は、騎馬の民に握られていた。 北の草原の道は、匈奴や突厥といった遊牧勢力の支配下にありました。だから漢の武帝は、匈奴の草原を迂回するように、河西回廊をこじ開けて南のオアシスの道を国家戦略として開いたのです(→「[劉解憂と前漢の西域外交]」)。楽な道が敵の手にあるとき、人は険しい裏道を通す。
② 絹は、軽くて、ばかみたいに高い。 険しい道で運べる荷は、ラクダの背の、わずかな量だけ。穀物や鉄を、砂漠と高山を越えて運んだら、割に合いません。けれど絹なら、ひとつかみで一財産。重さあたりの値段(価値の密度)が桁外れに高いから、命がけの遠路でも、十分に元が取れた。だからこの道を流れたのは、絹・宝石・麝香(じゃこう)といった、「軽くて、目の玉が飛び出るほど高いもの」だけでした。一説ですが長安で仕入れた商品は最低でも250倍の値段で西方社会で売れたそうです。
③ その絹を、狂ったように欲しがる市場があった。 いちばん有名なのは、古代のローマです。ローマの貴婦人たちが競って中国の絹をまとい、その代金としてローマの金(きん)が東へ流れ出し、博物学者プリニウスが「絹のために国富が漏れる」と嘆き、元老院が「透ける絹は風紀を乱す」と禁じようとしたほどでした。絹は、その後もビザンツの宮廷、ペルシアやオスマンの後宮で、最高の贅沢品であり続けます。遠い西の宮廷の女性たちの「欲しい」が、はるばる険路を越えるだけの値段を、絹につけていたのです。
④ オアシスには、街と水と、ソグドの中継ぎがあった。 険しくても、オアシスの道には、点々と都市があり、水があり、市場があった。そして何より、各地に集落を張ったソグド商人という中継ぎが、荷をリレーしてくれた。むき出しの草原には、この「街のインフラ」がありません。高価な絹を、安全に、確実に、東から西へ運ぶには、オアシスの道のほうが、むしろ理にかなっていたのです。
> 余談——現代の四駆でも、山は地獄 タシュケントで、タジキスタンのドゥシャンベ(パミールの麓の街)にある日本大使館へ行った、という人に会いました。「とにかく山の中で大変だった」と。現代の四輪駆動の車をもってして、です。ラクダと自分の足で、その山と砂漠を越えた古人の苦労は、想像を絶します。それでも、人は通った。通るだけの理由——草原が塞がれ、絹が高く、西に飢えた市場があり、オアシスに中継ぎがいた——が、それだけ強かったのです。
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> なお、絹は「まとう贅沢」であると同時に「はこぶお金」でもありました。回鶻は馬を絹で買い(絹馬交易)、宋は遼へ歳幣として絹二十万匹を毎年贈った(→「[澶淵の盟と蕭燕燕の中央集権]」)。絹そのものが、通貨だったのです。(余談の余談ですが、ビザンツは六世紀半ば、蚕の卵を杖の中に隠して中国から密輸し、絹の独占を破った、とも伝わります。)
私の見立て——草原を支えた、もう一本の柱
私たちは「草原の帝国」と聞くと、馬上で弓を引く戦士ばかりを思い描きます。けれど、その帝国を実際に富ませたのは、しばしばソグド人のような商業の民でした。
戦士が領土と道を確保し、商人がその道で富を生む。力(武)と、富(商)。この二本の柱が組んだとき、草原の帝国は最も大きく輝いたのです。
そしてこの「商の柱」が、やがて中華帝国の心臓部にまで食い込んでいきます。唐の宮廷を揺るがした安禄山——彼もまた、ソグドの血を引く男でした。
ソグド商業ネットワークの富が、どのように唐の中枢に入り込み、安史の乱という大乱につながっていったのか。
その物語は、次の記事で見ていきましょう(→「[安禄山・安慶緒と安史の乱]」)。
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