> ※この記事は「草原の帝国」シリーズの一篇で、「[ソグド人]」の続き、そして「[燕雲十六州]」の背骨へつながります。シルクロードの富を運んだソグド人が、ついに唐の心臓部を揺るがす——その乱を、「草原の民が、漢の中華に食い込んだ」という角度から読みます。最初にお断り。この記事には、私の想像(見立て)がかなり混じります。史実と推測は、できるだけ分けて書きます。(安禄山の子・安慶緒は→「[安慶緒]」に別立てしました。)
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安禄山は、なぜ玄宗に近づけたのか
安史の乱を起こした安禄山(あんろくざん)は、ブハラ出身のソグド人を父に、突厥(テュルク)人を母に持つ混血でした(「匈奴との混血」とする記述も見ますが、八世紀に匈奴はもう歴史の彼方。正しくは突厥です)。本名は軋犖山(ロクシャン)、ソグド語で「光」の意。
漢人でもない彼が、玄宗皇帝や楊貴妃の寵愛をほしいままにし、宮廷の中枢に食い込めたのは、なぜか。一般には「話術に長けた」と説明されます。けれど、それだけで皇帝の信頼が続くでしょうか。
> 私の見立て——ソグド商業ネットワークの富 ここからは想像です。寵愛を保ち続けたのは、話術や一度きりの賄賂ではなく、継続的に莫大な富を献上し続けたからではないか。臣下がくり返し「安禄山は危険だ」と諫めても玄宗が手放せなかったのは、それほどの「うまみ」があったから——。その源泉こそ、ソグド商業ネットワーク(→「[ソグド人]」)。安禄山の背後には、唐の役人を抱き込んで商いを有利にし、その利でさらに上を抱き込む好循環があった。断定できる史実ではありませんが、彼の異例の出世を説明する、有力な見方だと思います。
史実として確かなのは、安禄山が玄宗・楊貴妃に取り入り(楊貴妃の養子にまでなった)、751年までに平盧・范陽・河東の三鎮の節度使を兼ねる、巨大な軍事力を握ったことです。
乱を担ったのは、「胡」の軍だった
ここが、この乱の正体を映す、いちばん大事なところです。安禄山の軍は、漢人の正規軍ではありませんでした。彼の本拠は、東北の辺境——范陽(はんよう=幽州=今の北京)・平盧(へいろ=営州)・河東。そこは、長城のすぐ内と外で、漢と草原の民が混じり合う土地でした。
そして安禄山は、その辺境で、多民族の「胡(こ)」の軍を育てていました。契丹(きったん)・奚(けい)・同羅(どうら)・突厥の降兵——草原・東北の遊牧戦士たちです。彼の親衛隊「曳落河(えいらくが)」は、八千の胡の精鋭だったと伝わります。安禄山自身が蕃将(ばんしょう=異族の将軍)であり、蕃兵を束ねる男だった。漢の都を襲ったのは、漢の軍ではなく、辺境の草原の軍だったのです。
> ここで、シリーズの糸が二本つながります。ひとつ、軍の中核にいた契丹は、東胡(モンゴル系に近い)の民で、長く突厥・草原の影響下にありました。そして——この契丹こそ、二百年後に遼を建てる人々の祖です(→「[遼で読む征服王朝]」)。安禄山の軍にいた草原の民が、のちに燕雲十六州を奪い、北京を都にする。歴史は、地続きです。
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> もうひとつ、より大きな視野で。安禄山につらなる「胡」の世界は、東北の契丹から、はるか西のカルルク(葛邏祿)まで広がっていました。カルルクは、ソグドの地に近いテュルク系で、まさにこの751年、タラス河畔の戦いで唐を裏切り、アッバース朝に大敗させた民です(→「[葛勒可汗]」)。東でも西でも、草原の胡が唐を押している。安史の乱は、その「胡の台頭」が、ついに唐の内側で爆発した事件でもありました。
751年——唐を揺るがした、二つの出来事
751年は、唐の転換点でした。安禄山が三鎮節度使として強大な権力を握り、同じ年、名将・高仙芝が、タラス河畔の戦いでアッバース朝に敗れた(カルルクの土壇場の裏切りで、唐軍は壊滅)。東の辺境では胡の将が軍を握り、西の辺境では胡の裏切りで大敗する。この同じ年に、唐は東西の両方で、草原の胡に足元をすくわれたのです。
> 私の見立て——なぜカルルクは裏切ったのか 戦いの土壇場で寝返ったカルルクの選択を、私は「強い方・伸びる方に賭けた、草原のリアリズム」だと読みます。
712年にアラブ(ウマイヤ朝)がサマルカンドを落として以来、その東進は四十年、止まらなかった。対する唐は、本拠から遠い中央アジアの奥まで伸びきっていた。二つの帝国に挟まれた草原の民が「ここで強いのは、どちらか」を冷静に値踏みすれば、答えはアラブだった——勝てる側にだけ賭ける、[尉繚]や[蕭燕燕]に通じる計算です。
しかも唐は、自分で味方を減らしてもいました。前年(750年)、高仙芝は同盟相手のはずの石国(せきこく=タシュケント)をだまし討ちにして王を処刑し、怒った石国の王子が、アラブを引き入れていたのです。「アラブは強い/唐は信用できない」——この二つが、カルルクの背中を押したのでしょう。
そして長い目で見れば、その賭けは当たります。タラスののち唐の西域支配は退き、カルルク自身は、やがてテュルク系初のイスラム王朝(カラハン朝)につらなる、イスラム・テュルクの世界の住人になっていきました。
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> 712年のサマルカンド陥落という一点が、西ではカルルクをアラブ側へ走らせ、東ではソグド人を唐の内側へと追い込んだ(→後述の「燕国」)。
一つのアラブの膨張が、ユーラシアの両端で、同時に唐を揺らしていたのです。
> 私の見立て——唐に芽生えた「民族意識」 唐は、多様な民族を受け入れる国際国家でした。けれど中心はあくまで漢民族で、異民族は「周辺」に置かれていた。ところが気づけば、軍を握るのも辺境を脅かすのも異民族である。タラス以降、「異民族のほうが力を持っている。漢民族はいつの間にか中心から外れたのでは」という不安が、支配層に広がったのではないか。楊貴妃の一族・楊氏が安禄山の一族・安氏を敵視したのも、単なる権力争いを超えた、漢の異族への警戒だったのかもしれません。
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> (ただし慎重に。乱の原因はこれ一つではありません。楊国忠と安禄山の個人的対立、辺境に軍事力を集中させた節度使制度の構造的欠陥、安禄山個人の野心——いくつもの要因が絡みます。唐の開放性は、弱点であると同時に、唐を世界帝国たらしめた強みでもありました。一面で断じるべきではない、と思います。)
燕雲のあたりは、もう中央に従っていなかった
そして、これがあなた(読者=私)の気づきの核心です。安禄山の本拠だった河北——のちの燕雲十六州のあたり——は、乱の前から、ほとんど中央の言うことを聞かない、半ば「草原の世界」になっていました。
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胡の民が濃く住み、胡の将が胡の兵を率い、都の漢の朝廷とは、文化も気風も離れていた。だからこそ、ここから大乱が噴き出し、しかも——乱が一応おさまった後も、河北は唐に完全には戻りませんでした。降った安史の旧将たちが河朔三鎮(かさくさんちん)という半独立国を作り、安禄山ら反乱の首領を「[四聖]」として祀りさえした。「逆賊」は、中央の正史での話。河北では、彼らは英雄だったのです。
この「中央に従わぬ河北=燕雲」という素地は、ここで終わりません。約二百年後、この一帯はまるごと契丹(遼)に割譲され、遼の南京=北京になっていく(→「[燕雲十六州]」)。草原の胡が濃かった土地が、やがて草原帝国の都になる。安史の乱は、その長い物語の、最初の地鳴りでした。
私の見立て——「軍閥化」は、千年後の清末でも繰り返した
安禄山が握っていたのは、ただの軍隊ではありません。彼は節度使(せつどし)——軍事だけでなく、その地方の行政も財政も一手に握った役職でした(節度使とは何かは→「[虎符]」)。だからこそ、中央なしでも自立できた。乱のあと、河朔三鎮の節度使たちは、税も納めず、後継も自分で決める、世襲の半独立国になった。肩書きは「節度使」でも、中身はもう“軍閥”だったのです。「中央軍が弱る → 地方が自前の軍と財源を持つ → 軍閥化する → 王朝が割れる」——この公式が、安史の乱で動き出しました。
> そして、これは清の末にも、そっくり繰り返されます。 太平天国を前に、清の正規軍(八旗・緑営)は役に立ちませんでした。そこで曽国藩の湘軍、李鴻章の淮軍——指揮官個人に忠誠を誓い、自前の財源で養われる地方軍——が生まれた(→「[李鴻章]」「[清末の財政・軍閥化]」)。これが種となり、清が倒れたあとの北洋軍閥の割拠へとつながっていく。唐の節度使と、清末の湘軍・淮軍。千年をへだてて、まったく同じ崩れ方を、中国は二度くり返したのです。地方に軍と金を委ねた帝国は、その地方によって食い破られる——安史の乱は、その最も古い、そして最も鮮やかな見本でした。歴史は、ほんとうに、繰り返すのです。
安史の乱と、燕国
755年、安禄山は挙兵して洛陽を落とし、翌756年、自ら皇帝を称して国号を「大燕(燕国)」とします。乱は、安禄山の死後も史思明・史朝義へと続き、763年まで、足かけ八年に及びました。唐は辛うじて生き延びますが、二度と元の力は戻りませんでした。
> 私の想像(大きな見立てとして) 故郷ソグディアナをアラブ(ウマイヤ朝、712年のクタイバの征服)に奪われ、行き場を失いつつあったソグド人にとって、安禄山の「燕国」は、単なる反乱ではなく、唐の領内に、自分たちと近縁の胡の民による国を築こうとする試みだったのではないか。ソグド網の富と人脈を背景にした、生き残りのための国家建設。あくまで想像ですが、安史の乱を、アラブの拡大に押された胡の東漸という、より大きな世界史の中に置いてみたくなるのです。
私の見立て——「征服王朝」の、裏返し
最後に、この乱を、シリーズ全体の中に置いてみます。
私は遼や清といった征服王朝——少数の異民族が、多数の漢民族を治める国——の「漢化か、独自性か」の亀裂を追ってきました(→「[征服王朝とは何か]」)。
安史の乱は、そのちょうど裏返しです。漢民族が中心の唐に、異民族(ソグド・突厥・契丹ら草原の胡)が深く食い込み、ついに中枢を揺るがした。
征服王朝が「異族が漢を治める」国なら、安史の乱は「漢の中で異族が力を持ちすぎた」破裂だった。
向きは逆でも、根は同じ「漢と胡の境界」の緊張。そしてその境界線が地図に引かれている場所こそ、安禄山が立った燕雲=北京の扉だったのです(→「[燕雲十六州]」)。
私の見立て——これは、遼の「前哨戦」だった
もう一歩、時間を先へ進めてみます。私には、安史の乱が遼(契丹)の前哨戦——草原の民が壁の内側に住み着き、もう追い出せなくなっていく、その長い物語の最初の地鳴りに見えるのです。
ただの直感ではなく、史実が一本の鎖でつながります。
①乱のあと、唐は河北を取り返せず、降った安史の旧将がそのまま節度使になって、河北三鎮は半独立・胡化した藩鎮になる——壁の内側に居座った草原です。
②その藩鎮割拠で唐は衰え、ついに滅ぶ。
③ 続く五代の北の王朝——後唐・後晋・後漢——は、沙陀(さだ=テュルク系)が建てた。草原の軍人が、ついに華北の玉座に座ったのです。
④そして九三六年、後晋の石敬瑭が、契丹の助けと引き換えに[燕雲十六州]を割譲した。
⑤その燕雲を抱えた[遼]が、壁をまたいで漢人と草原を[二重統治]する、最初の本格的な征服王朝になる。——安史の乱で開いた扉が、河北→沙陀→燕雲割譲と押し広げられて、最後に遼が、堂々と入ってくる。「燕雲=扉」の話と、ここで完全につながります。
ただし——「草原 vs 漢」と単純化はしない ここは慎重にいきたいところです。安史の乱は、きれいな民族戦争ではありませんでした。
唐を安禄山から救った将軍たちもまた蕃将で、なんと[李光弼]は契丹人。都を奪い返す決め手になった騎兵は、草原の[回鶻](ウイグル)でした。
草原の民は、攻める側にも、守る側にもいたのです。しかも唐の皇室自身が、北魏[拓跋]の流れをくむ[関隴]集団の出——いわば「溶けた草原王朝」でした。だから安史の乱は、「外の草原が、純粋な漢を襲った」のではない。
すでに内側まで入り込んでいた草原が、内と外の境目を、自分から崩していった——そういう事件だったのだと思います。
安史の乱は、北魏→唐とつづいた「溶けた草原(浸透)」の時代が傾き、遼→金→元→清の「溶けない草原([征服王朝])」の時代が始まる、その蝶番(ヒンジ)だった。マスター・テーゼでいう「溶けた/溶けず」の、ちょうど折り返し点に、安禄山は立っていた。彼は唐という「溶けた草原」の最後の申し子であり、同時に、遼という「溶けない草原」の、いちばん早い予兆だったのです。
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