モダンウーマンから清朝最後の皇后へ——その素顔と運命
1906年11月13日 ~ 1946年6月20日(享年39歳)
ショパンを弾き、英語で手紙を書き、自転車を乗り回した「モダンウーマン」——しかし彼女は16歳で時代の波に呑み込まれ、清朝最後の皇后となった。婉容とはいったい何者だったのか。
清朝最後の皇后·婉容(えんよう)。その名は「ラストエンペラー」の悲劇的な皇后として知られているが、彼女がどんな人物だったかはあまり語られない。
宮廷に入る前の婉容は、当時の中国では異例なほど開明的な教育を受けた、才能あふれる現代的な女性だった。その人物像を知ることなしに、彼女の悲劇の深さは理解できない。
I. 啓蒙的な家庭に育った「モダンウーマン」
名門の家系
婉容は1906年11月13日、満洲族の名門·郭布羅氏に生まれた。父·荣源は清朝内務府大臣を務めた人物で、その家系は乾隆帝の時代にまで遡る由緒ある一族であった。
※家系の詳細については現在調査中。確認でき次第追記予定。
破格の教育——男女平等を信じた父
父·荣源は当時の中国では極めて稀な、啓蒙的な考えの持ち主だった。男女平等を主張し、娘にアメリカ人教師をつけて英語と西洋の礼儀作法を教えた。
中国の伝統教育と西洋教育の両方を受けた婉容は、伝統的な洗練さと現代的なセンスを兼ね備えた女性へと成長していった。
才能と個性——「エリザベス」と名乗った少女
婉容の才能は多岐にわたった。音楽、囲碁、書道、絵画に熟達し、ショパンの「雨だれ」を演奏し、優雅な英語の手紙を書くことができた。
西洋風の服装を好み、サイクリングを楽しみ、映画鑑賞を愛した彼女は「エリザベス」という英語名を名乗り、その明るく快活な性格で貴族社会に名声を博した。当時の言葉でいう「モダンウーマン」そのものだった。
ショパンを弾き、英語で手紙を書き、自転車を乗り回す16歳の少女——この婉容が、まもなく時代の激流に呑み込まれることになる。
II. 皇后への道——16歳で決まった運命
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最後の皇后選び
1922年、溥儀の妃選びが行われた。最終候補に残ったのは婉容と文繡(ぶんしゅう)の二人。溥儀は婉容を皇后に、文繡を側妃に選んだ。
婉容が16歳のときのことだった。彼女の意思が問われることはなかった。
はじめての「円満な生活」
入宮当初、二人の関係は良好だった。英語で文通し、一緒に自転車に乗り、写真を撮り合うなど、一見すると現代的な夫婦の姿があった。
しかし実態は、溥儀の身体的な事情から、結婚は名ばかりのものに過ぎなかった。婉容は精神的な空虚感を抱えながらも、皇后として紫禁城での生活を送った。
紫禁城から追放——転落の始まり
1924年、馮玉祥のクーデターにより、溥儀は紫禁城から追放された。婉容も彼とともに天津の張園、のちに静園へと移った。
清朝という後ろ盾を失い、宮殿という舞台も失った。皇后という肩書きだけが残り、彼女の人生は少しずつ制御を失い始めた。
側妃·文繡との関係も次第に複雑になっていった。文繡については、のちの映画『ラストエンペラー』でも描かれている(詳細は関連記事参照)。
紫禁城を追われた婉容に残ったのは、「皇后」という称号と、すでに形骸化しつつあった結婚生活だけだった。
この記事のまとめ
婉容は、清朝という王朝が終わりを迎えようとしていた時代に生まれ、その最後の皇后となった女性だった。
啓蒙的な家庭で育ち、才能と個性を持つ「モダンウーマン」だった彼女が、16歳で皇后に選ばれ、やがて時代の犠牲者となっていく——その物語の転換点は、1931年の天津脱出事件にある。
彼女は日本軍に「騙されて」連れ出されたのか、それとも自らの意思で決断を下したのか。次の記事では、溥儀の側近·李国雄の証言をもとに、この問いに迫る。
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※ さがひろ氏の著作からの引用は確認後追記予定



