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『逃げ上手の若君』が気になって鎌倉を歩いてみた── 鎌倉幕府最後の日をたどる ──

はじめに

元弘三年(1333年)五月、新田義貞の軍勢が鎌倉に殺到し、百五十年にわたって武家政権の中枢であった鎌倉幕府は滅亡しました。

先日、私は由比ヶ浜から鶴岡八幡宮、そして東勝寺跡の方角へと歩いてみました。観光客で賑わう現在の鎌倉の街並みの下に、あの激戦の記憶が眠っているのだと思うと、不思議な気持ちになります。

この記事では、新田義貞軍の進攻ルートをたどりながら、鎌倉幕府最後の日々を追ってみたいと思います。

新田義貞の二方面攻撃

西から ── 稲村ヶ崎の突破(決定打)

鎌倉は三方を山に、南を海に囲まれた天然の要害です。陸路からの侵入は、狭い切通を通るしかなく、守る側にとってはこの上なく有利な地形でした。

新田義貞は、この鎌倉の防御の盲点を突きました。稲村ヶ崎です。

稲村ヶ崎は海岸沿いの断崖で、通常であれば軍勢が通過できるような場所ではありません。しかし義貞は、潮が引いた隙を見計らって海岸ルートを突破しました。有名な伝承では、義貞が黄金の太刀を海に投じて龍神に祈ったところ潮が引いた、と語られています。伝承の真偽はともかく、干潮の時機を見極めた軍事的判断が見事だったことは間違いありません。

この突破により、義貞軍は南の由比ヶ浜側から鎌倉市中に攻め入ることが可能になりました。北条軍にとって、まさか海の方角から敵が来るとは――それが盲点だったのです。

北西から ── 巨福呂坂の正面突破

もう一方の攻撃軸は、北西の巨福呂坂切通からの正面突破でした。

巨福呂坂は鎌倉の主要な出入り口のひとつで、北条軍が当然のことながら厚く防御を固めていた場所です。ここでは凄まじい激戦が繰り広げられました。しかし、最終的に義貞の軍勢はこの切通を突破してしまいます。

巨福呂坂が抜かれるということは、その先に直結する鶴岡八幡宮エリアに敵兵が雪崩れ込むことを意味しました。鎌倉の心臓部が、一気に戦場と化したのです。

鎌倉市街戦 ── 二つの軍勢が挟撃する

フェーズ① ── 鶴岡八幡宮周辺の混戦

義貞軍は、南北から鎌倉の中心部を挟み込む形になりました。

巨福呂坂を突破した部隊は北から南へ。由比ヶ浜から入った部隊は南から北へ。

両軍が合流する地点が、鶴岡八幡宮の周辺です。ここで激しい混戦が始まりました。

実際に私は由比ヶ浜から賑やかな若宮大路を通り、鶴岡八幡宮まで歩きました。いまは観光客で溢れるこの道を、新田義貞の軍勢が進軍したのです。当然、略奪や放火もあったでしょう。逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえたような気がしました。

鶴岡八幡宮の手前あたりは、鎌倉で最も華やかで格式のある場所です。そして八幡宮の東側には北条家の屋敷があり、鎌倉幕府の官庁街でもありました。幕府の中枢ともいえるこの場所で、北条軍と新田軍による激しい市街戦が繰り広げられたことが想像されます。

若宮大路は、当時もきっと裕福な商人の邸宅や店が立ち並び、北条氏に近い有力御家人の屋敷もあったでしょう。戦闘に加えて略奪、惨殺も凄まじかったのではないかと思います。

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フェーズ② ── 北条側の「収縮」

前線が崩壊すると、北条高時ら北条一族は前線の維持を諦めます。

鎌倉七口と呼ばれる各切通の拠点も放棄し、「奥へ、奥へ」と退いていきました。向かった先は東勝寺。鎌倉の東の端、山が迫る谷の奥にあるその寺は、北条氏が行ける「最後の奥」でした。

東勝寺 ── なぜ、逃げ道のない場所へ向かったのか

東勝寺の方角に実際に歩いてみると、道はどんどん細くなり、両側から山が迫ってきます。私も行ってみましたが、寂しく、道も狭く、途中で引き返してしまいました。

東勝寺は袋小路です。逃げ道ではなく、岩戸の奥の行き止まり。どこにも行けません。

では、なぜ北条高時たちはそんな場所に向かったのでしょうか。

答えは、もう逃げる意味がなかったのだと思います。

たとえ鎌倉からの逃亡に成功したとしても、御家人たちの離反が相次いでいた当時、受け入れてくれる先などほとんどありませんでした。捕まれば処刑、晒し首。逃げたところで各地で討たれるか、降伏して処刑されるか。逃げた先が地獄であるならば、一族で最期を迎える方を選んだのではないでしょうか。

そして東勝寺は、ただの寺ではありませんでした。

東勝寺は、北条氏の祖・北条泰時が創建した寺であり、北条一族の菩提寺──つまり、先祖が眠る場所でした。

高時たちにとって、ここは「逃げ込む場所」ではなく、「ここで死ぬ」と覚悟を定める場所だったのでしょう。武士としての最期の美学。一族で自刃する、その場所として選んだのです。

高時が最期に託したもの

しかし、高時は一族の全滅を選んだわけではありませんでした。

自害を前にして、高時は二人の息子を鎌倉から逃がしています。次男の時行と、長男の邦時です。一族として死を覚悟しながらも、子どもたちだけは生き延びさせたい。北条の血を絶やしてはならない──高時の最後の決断は、滅びゆく一族の当主としての覚悟と、父親としての祈りが重なったものだったのではないでしょうか。

この判断がなければ、のちに時行が北条再興を掲げて立ち上がることもありませんでした。東勝寺で果てた高時の意志は、逃がされた幼い息子たちの中に確かに受け継がれていったのです。

鎌倉を歩いて感じたこと

若宮大路を東に入ると、いまでも打って変わったように静かになります。観光客で大賑わいの若宮大路と、その東側の静寂。この対比が、そのまま鎌倉の歴史の表と裏のように感じられました。

北条高時の屋敷跡は、いまは宝戒寺になっており、北条氏の御霊を慰めています。寺の門には北条氏の家紋がありました。滅んだ一族の魂を鎮めるために建てられた寺。そこに家紋が静かに掲げられている光景は、胸に迫るものがあります。

華やかな若宮大路から東へ東へ、奥へ奥へと進むにつれて道は細くなり、山が迫り、寂しくなっていく。この地形そのものが、北条氏の最後の時間を物語っているようでした。

巨福呂坂の突破口は、そのうちぜひ訪れてみたいと思っています。北からの進攻ルートを自分の足で確かめることで、この戦いの全体像がもっと立体的に見えてくるのではないかと期待しています。

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