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 前漢武帝 西域を狙う:張騫の西域探検から細君公主と劉解憂の役割まで ドラマ解憂

武帝は、匈奴によって河西(甘粛(かんしゅく))地方からイリ川方面に追われていた月氏(げっし)と結ぶことにより匈奴を挟み撃ちにしようと考えて、張騫を使者として紀元前139年西域に向かいました。途中、甘粛で10年ほど匈奴に捕らえられましたが、脱出し目的の大月氏国に到達しました。

アイキャッチ画像は張騫の通った道です。

しかし月氏はすでにアムダリア川流域に定住し、大月氏国として繁栄していたので、匈奴を討つ意思はありませんでした。前126年帰国しました。前121年、張騫はイリ川の烏孫へ使節として行きました。2度の旅行で西方の事情が明らかとなり,漢の西域経営の意思が固まりました。

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前121年、漢は匈奴との戦争で大きな勝利をあげて、敦煌などを含む河西回廊を手に入れて、本格的に西域経営に取り掛かりました。

イリ川付近の烏孫と同盟してなんとか匈奴を撃ちたかったので、前105年、細君公主を烏孫に嫁がせました。もちろん匈奴も烏孫に公主を嫁がせており、烏孫朝廷はどちらに与すればトクなのか考えていたことでしょう。

気苦労も多かった細君公主は嫁いで5年で亡くなってしまい、次に大変な役目を負ったのが、劉解憂でした。

テレビドラマはかなりフィクションが盛り込まれていますが、烏孫王の母は母国の思惑を背負っている和親公主たちに目を光らせ、和親公主を牽制するための駒としての夫人を用意して待ち構えています。

 

 

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