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『逃げ上手の若君』の兄・北条邦時はなぜ殺されたのか── 甥を売った男・五大院宗繁の真実 ──

はじめに ── 漫画から鎌倉へ

私が鎌倉時代に興味を持ったきっかけは、松井優征先生の漫画『逃げ上手の若君』でした。北条時行の物語に引き込まれ、それまでまったく縁のなかった鎌倉に初めて足を運び、北条氏の小町屋敷の跡地を訪ね歩くようになりました(小町屋敷についてはいずれ別の記事で書くつもりです)。

調べていくうちに、どうしても引っかかったのが時行の兄・北条邦時の最期です。鎌倉幕府滅亡の日、北条高時は東勝寺で一族郎党およそ八百人とともに自害しました。その高時が、死を覚悟する間際に邦時を託したのが、母方の伯父にあたる五大院宗繁(ごだいいん むねしげ)でした。邦時を守り育てよ、と。

周囲もおじだからと安心して任せました。邦時の乳母たちも、血縁者のもとに行けるのだと喜んだといいます。

だからこそ宗繁は東勝寺には行かなかった。邦時を預かるという大義名分があったからです。

ところが宗繁は、その信頼を裏切ります。八百人が主君と運命をともにしたのに、託された甥を敵に売って自分だけ生き延びようとした。

『太平記』は宗繁を卑劣漢として断罪しますが、その「なぜ」には答えてくれません。

邦時の母は宗繁の妹で、北条高時の側室でした。邦時は伊豆山へ向かう途上、相模川で捕縛され、529日に鎌倉で処刑されています。

そこで、宗繁の名前の由来、推定される荘園の位置、そして元弘三年(1333年)五月の戦況を重ね合わせてみたところ、『太平記』が描く「卑怯者」とはまったく違う景色が見えてきました。

一、「五大院」という名が語るもの

中世武士の名字は、本拠地の地名に由来するのが通例です。「五大院」という名は、明らかに寺院名を想起させます。

では、どのような寺院か。

「五大」とは不動明王を中心とする五大明王を指し、五大明王信仰にもとづく寺院がその名の由来である可能性がきわめて高いと考えられます。

つまり五大院宗繁は、五大明王を祀る寺院とその周辺を支配する在地の武士だったと推測できるのです。

二、荘園はどこにあったか ── 極楽寺坂の仮説

宗繁の荘園がどこにあったのか、直接的な記録は残っていません。しかし、五大明王信仰系の寺院が鎌倉のどこに存在したかを探ると、ひとつの手がかりが浮かび上がります。

鎌倉における五大明王系の寺院は、極楽寺坂の周辺に存在していました。

鎌倉の御家人は、鎌倉市中に屋敷を構えつつ、外縁部に本拠地としての荘園を持つのが一般的な形態でした。

宗繁もまた、鎌倉に屋敷を持ちながら、極楽寺坂の周辺に荘園を持っていたのではないか。これが私の推理です。

私の見立て:名字の由来五大明王信仰極楽寺坂という推論の連鎖は状況証拠にすぎませんが、中世武士の名字と本拠地の関係を考えると、十分に合理的な仮説だと考えています。いずれ極楽寺坂を実際に歩いて、地形を自分の目で確かめたいと思っています。

三、元弘三年五月 ── 御家人たちの選択

元弘の乱の終盤、日本列島の東西で同時に反幕府の狼煙が上がりました。西では足利尊氏が京都の六波羅探題を攻略し、東では新田義貞が上野で挙兵して鎌倉へ進軍を開始しています。

「幕府はもう持たない」── その空気は鎌倉の御家人たちの間に急速に広がっていたはずです。

彼らの前にあった選択肢は、大きく二つでした。

北条氏と心中するか、新田に付いて生き残るか。

そして倒幕後を考えれば、新政権での地位と所領の安堵こそが最重要課題であり、先に寝返った者ほど有利になることは誰の目にも明らかでした。

鎌倉にしか屋敷がないような御家人は、北条氏とともに滅びるしかありませんでした。

しかし外に荘園を持つ者は違います。自分の荘園さえ安堵してもらえるなら、主人を替えてしまっても構わない── そういう計算が働く余地があったのです。

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四、地形が語る ── 極楽寺坂の地政学

ここで地形の問題が決定的に重要になります。

新田義貞の鎌倉攻めは、稲村ヶ崎からの突破で知られています。これはつまり、極楽寺坂を抜けた先の平地── 長谷の一帯は、すでに新田勢が制圧していたということです。

もし宗繁の荘園が極楽寺坂の周辺にあったとすると、状況はこうなります。

坂を越えれば、そこはもう新田義貞の支配領域。自分の領地を守りたければ、新田に寝返ったほうが合理的です。

なぜ極楽寺坂だったのか

鎌倉の西側には化粧坂(けわいざか)という切通しもあり、そちらにも中世寺院が密集しています。しかし邦時が通った道は極楽寺坂だったと私は考えます。

理由は単純です。化粧坂はきわめて険しい。幼い邦時を連れて、夜間の混乱のなか、あの急峻な坂を越えるのは現実的ではありません。

一方、極楽寺坂は比較的道が整っており、幼子を連れた逃避行にはこちらのほうがはるかに通りやすかったはずです。

しかし、坂を越えた先に広がる長谷の平地にいたのは── 新田義貞の軍勢でした。

私の見立て:宗繁は邦時を「庇うふり」をして、極楽寺坂を越えさせたのではないでしょうか。

坂の向こうは新田の制圧地域ですから、邦時がそこに入れば捕縛されるのは時間の問題です。

甥を自分の手で害するのではなく、「逃がしてやった」体裁をとりながら、実質的に新田に引き渡す── そういう筋書きが見えてきます。

五、坂の向こうにいた者たち

極楽寺坂を越えた長谷の平地には、三種類の人間がいたと考えられます。

第一に、新田義貞配下の武士たちです。鎌倉に侵入した直後で士気は高く、逃走者の掃討任務を担っていました。西側から入った部隊── 極楽寺坂や化粧坂を越えてきた兵たちが、そのまま周辺を固めていたでしょう。

第二に、地元の在地御家人たちです。ここが核心です。五大院宗繁のような存在── 地形を熟知し、逃走路や抜け道を把握し、地元のネットワークを持つ武士たちがいました。

第三に、動揺した旧幕府勢です。元は北条側だった御家人たちが、戦況を見て動揺し、離反を始めていました。逃げるか、寝返るか、その場で従うか。そのなかには「捕まえる側に回る」ことで自分の立場を確保しようとした者もいたはずです。

六、太平記が隠したもの ── 多数の離反者たち

『太平記』は五大院宗繁ひとりに裏切り者の汚名を着せています。しかし実際には、多数の御家人が同じ選択をしていたはずです。

宗繁が際立って記録されたのは、甥という肉親を売り渡したという「物語としての衝撃」があったからでしょう。しかし冷静に考えれば、邦時はまだ幼く、何の実権も持っていませんでした。宗繁にとって、実権のない幼い甥と一蓮托生するよりも、自分の一門や領地を守ることのほうが切実だった── それは、あの時代の武士としてはむしろ自然な判断だったのではないでしょうか。

鎌倉幕府の滅亡は、得宗家の自滅だけでなく、こうした無数の「合理的な離反」の集積によってもたらされたのだと、私は考えています。五大院宗繁は、その群像のなかでたまたま名前が残ってしまった一人にすぎないのかもしれません。

おわりに

五大院宗繁を「卑怯者」として片付けることは簡単です。しかし、名前の由来から荘園の位置を推理し、当時の戦況と地形を重ね合わせてみると、彼の行動には一貫した合理性が見えてきます。

五大明王信仰の寺院に由来する名字。極楽寺坂周辺にあったと推定される荘園。新田義貞の稲村ヶ崎突破によって、すでに新勢力の支配下に入っていた長谷の平地。── これらの条件が揃えば、宗繁の選択はほとんど必然だったとさえ言えるかもしれません。

太平記は一人の「裏切り者」を描きましたが、歴史の実相は、もっと複雑で、もっと人間的だったのだと思います。

 

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