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五大院宗繁は、なぜ甥を売ったのか ── 「卑怯者」の七日間を追う

## はじめに ── 漫画から鎌倉へ

私が鎌倉時代に興味を持ったきっかけは、松井優征先生の漫画『逃げ上手の若君』でした。北条時行の物語に引き込まれ、それまでまったく縁のなかった鎌倉に初めて足を運び、北条氏の小町屋敷の跡地を訪ね歩くようになりました(小町屋敷についてはいずれ別の記事で書くつもりです)。

調べていくうちに、どうしても引っかかったのが時行の兄・北条邦時の最期です。

元弘三年(1333年)五月二十二日、北条高時は東勝寺で一族郎党とともに自害しました。その高時が、死を覚悟する間際に嫡子・邦時を託したのが、母方の伯父にあたる五大院宗繁(ごだいいん むねしげ)でした。邦時の母は宗繁の妹・常葉前、高時の側室です。

血縁者に託されたのだから安心だ ── 周囲もそう受け取りました。邦時を預かるという大義名分があったからこそ、宗繁は東勝寺には行きませんでした。

そして宗繁は、その信頼を裏切ります。

主君と運命をともにした者たちがいる一方で、彼は託された甥を敵方に売り、自分だけ生き延びようとしました。邦時は五月二十八日の明け方、相模川のほとりで捕縛され、翌二十九日の暁に鎌倉で処刑されています。享年九。

『太平記』は宗繁を卑劣漢として断罪します。けれど私は、この一件を「人でなしの所業」で終わらせてしまうと、鎌倉幕府が滅びたときに現場で何が起きていたのかが見えなくなってしまう気がしてなりませんでした。

そこで、宗繁の家柄と立場、そして落城から処刑までの七日間を丹念に追ってみたところ、『太平記』の描く「裏切り者」とは少し違う景色が見えてきました。

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一、『太平記』は、実は「なぜ」を書いている

まず、私自身の思い違いを正すところから始めなければなりません。

調べ始めた当初、私は「『太平記』は宗繁を断罪するばかりで、なぜ裏切ったのかには答えていない」と思い込んでいました。しかし本文を読み返すと、動機ははっきり書かれています。

> 命を失はんよりは、此人の在所を知りたる由、源氏の兵に告げて、所領の一所をも安堵せばや

── 命を落とすくらいなら、邦時の居場所を源氏方に知らせて、所領の一か所でも安堵してもらおう。

さらに宗繁は、新田義貞の執事・船田義昌のもとへ出向き、「一所懸命の地を安堵してくれるよう取りなしてほしい」と明確に求めています。

つまり動機は、恩賞欲というより所領の保全です。『太平記』はそれを書いたうえで、なお彼を「欲心に義を忘れたる」者として弾劾している。

すると、問うべきことが変わってきます。「なぜ裏切ったのか」ではなく、なぜこの男にとって、所領の安堵がそこまで切実だったのか。ここからが、この記事の本題です。

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 二、御内人という立場 ── 安堵してくれる主が、いない

宗繁を理解するうえで決定的なのは、彼が 御家人ではなく御内人だったということです。

御内人とは、北条氏得宗家の私的な家臣のこと。幕府から所領を安堵された御家人とは、立場がまったく違います。五大院氏は得宗家の有力な御内人であり、婚姻を通じて得宗家と血縁関係まで結んでいました。宗繁の妹が高時の側室になったのも、その延長線上の話です。

ここに、恐ろしい非対称があります。

鎌倉の御家人たちは、幕府が倒れても「もともと所領を持つ武士」として新政権に安堵を願い出る道が残されていました。先に寝返った者ほど有利になることは、誰の目にも明らかだったでしょう。

しかし御内人は違います。彼らの所領を保証していたのは、得宗家そのものでした。 五月二十二日にその得宗家が消滅した瞬間、宗繁の「一所懸命の地」は、保証人を失った証文と同じになった。

> さとえの見立て

> 得宗家に最も近かったがゆえに、得宗家とともに何もかも失う ── それが御内人という立場でした。宗繁には、御家人のように「黙って新政権の安堵を待つ」という選択肢がなかったのだと思います。安堵は、何かを差し出して買うしかなかった。

> そして彼の手元にあった、新政権が最も高く買うであろう品物が、九歳の甥だったのです。

 甥ではあるが、五大院の子ではない

もうひとつ、日本語で書いていると当たり前すぎて素通りしてしまう前提があります。

邦時は宗繁の実の妹が産んだ子ですから、血としては半分が五大院です。けれど家としては、まったくの他家の子でした。

中世の武家の「家」は、血縁の束ではありません。土地と名と祭祀を継いでいく単位です。継承は父系でおこなわれますから、姉妹が他家に嫁いで産んだ子は、どれだけ血が濃くても、その家の成員ではない。邦時は北条という家の嫡子であって、五大院という家から見れば、外に出した妹が産んだ、よその家の子なのです。

ここに、残酷な完結があります。

妹を高時の側室として差し出したことは、五大院にとって投資でした。得宗家の外戚になれば、家の地位は上がる。ところがその投資の果実である邦時は、北条の家に属している。五大院が手に入れたのは「得宗家への近さ」だけで、自分の家を継ぐ子ではありませんでした。

そして五月二十二日、その「近さ」は資産から負債に変わります。得宗家に最も近い家であることが、最も危険な身分証明になった。妹を差し出して得たものが、そっくり毒に変わったのです。

 縁を切ったことを、どう示すか

さとえの見立て

ここから先は『太平記』の本文を離れた、私の推測です。

負債になった「近さ」を、宗繁はどう処理すればよかったのでしょうか。

妹を高時の側室に入れた家だという事実は、消せません。書類にも人の記憶にも残っています。その家が新政権に向かって「もう北条ではありません」と言ったところで、誰が信じるでしょうか。言葉では足りない。最も濃い縁そのものを、自分の手で断ち切ってみせるしかない。

よその北条の子を差し出しても、それはただの密告です。恩賞にはなっても、証明にはならない。自分の妹の子を差し出したときにだけ、それは縁を切った証拠になる。

この読みが正しいとすれば、宗繁の行為は軽くもなり、重くもなります。家を存続させるために迫られた必要だったと見れば、同情の余地は増える。けれど甥であることが条件だったと見れば、行為はいっそう計算高く、冷たく見える。

おそらく、その両方が同時に本当なのだと思います。

そのとき宗繁の手元に残っていたのが、妹を差し出したという取引の産物である、九歳の子でした。彼は、家のために差し出した妹の産んだ子を、もう一度家のために差し出したことになります。二度とも、理由は同じです。

『太平記』が書き留めた「所領の一所をも安堵せばや」という一句は、欲深い男の呟きというより、足元が崩れ落ちた者の悲鳴に近いのではないでしょうか。もちろん、だからといって許される話ではありませんが。

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 三、落城から処刑まで ── 七日間の時系列

ここは意外と誤解されやすいところなので、日付を整理しておきます。

| 日付(元弘三年五月) | 出来事 |

|—|—|

| 八日 | 新田義貞、上野・生品明神で挙兵 |

| 十八日 | 新田軍、化粧坂・極楽寺坂・巨福呂坂の三切通に総攻撃 |

| 二十一日未明 | 稲村ヶ崎を突破、鎌倉市中へ侵入 |

| 二十二日 | 東勝寺合戦。高時ら自害、幕府滅亡 |

| 二十二日~二十七日 | 邦時、鎌倉市中に潜伏。新田軍による残党狩り |

| 二十七日夜半 | 邦時、宗繁に促され伊豆山へ向けて鎌倉を出る |

| 二十八日明け方 | 相模川にて捕縛 |

| 二十九日暁 | 鎌倉にて処刑 |

重要なのは、邦時が鎌倉を脱出したのは落城当夜ではなく、五日後の夜だったという点です。

つまり彼が坂を越えたとき、鎌倉はすでに完全に新田方の制圧下にありました。混戦のさなかを駆け抜けたのではなく、制圧された都市から、監視の目をかいくぐって抜け出そうとしたのです。

そしてこの五日間、鎌倉では苛烈な残党狩りが行われていました。『太平記』によれば、北条一族を匿う者はたちまち殺され、捕らえて差し出した者には所領が与えられた。制度化された密告の奨励です。

落城後の鎌倉に、誰がいたか

この五日間の鎌倉を思い浮かべてみると、そこには三種類の人間がいたはずです。

第一に、新田方の兵たち。 市中に入った直後で士気は高く、残党の掃討を任務としていました。掃討は恩賞に直結します。血眼で探す理由があったということです。

第二に、旧幕府方の御家人たち。 北条氏とともに滅びた者ばかりではありません。戦況を見て動揺し、離反を始めた者が大勢いました。逃げるか、寝返るか、その場で従うか。所領を持つ彼らには、新政権に安堵を願い出る道が残されており、そして 先に動いた者ほど有利になることは、誰の目にも明らかでした。

第三に、御内人たちです。ここが核心です。 得宗家の被官であった彼らは、最も北条氏と一体と見なされる立場にありました。逃げても匿っても死が待つ。ならばどうするか ── 「捕まえる側に回る」ことで、自分の立場を確保しようとした者がいたはずです。

地形を熟知し、逃走路や抜け道を把握し、市中に人脈を持つ。残党狩りの手先としてこれほど役に立つ人材はいません。そして北条一族の潜伏先を知りうる立場にあったのも、彼らでした。

> さとえの見立て

 

五大院宗繁が甥を差し出した五月二十七日の鎌倉は、こういう場所だったのだと思います。昨日まで同じ主君に仕えていた者同士が、互いの居場所を値踏みしている。誰が誰を売ったかわからない。

この生々しさを抜きにして、宗繁だけを「稀代の卑劣漢」として取り出してしまうと、彼が何を見て決断したのかが見えなくなってしまいます。彼は例外だったのではなく、たまたま売った相手が特別だったのだと思うのです。

 五日間で、何が崩れていったか

『太平記』は、この五日間について「かくて二三日を経て後」としか書きません。けれど、この空白こそが宗繁という人間の全部だと思うので、私なりに埋めてみます。ここから先は私の読みです。

まず、初日の宗繁は本当に匿うつもりだったと思います。

そう考える根拠があります。彼は東勝寺に行かなかった。 一族郎党八百余人が死んだあの場に、邦時を預かるという理由で行かなかったのです。

もし最初から売る腹づもりなら、あんな危ない橋を渡る必要はありません。適当なところで降人になって、頃合いを見て差し出せばいい。彼は一度、邦時のために死ぬ側に自分を置いたのです。だから高時に「仔細候はじ」と答えたとき、あれは本心だったのだと思います。

そこへ、匿えば死罪という布告が届きます。

ここで恐ろしいのは、その布告が「自分が危ない」で終わらないことです。その布告は、宗繁の周囲にいる人間全員に、彼を売る動機を与えます。 御内人の仲間も、家人も、隣の屋敷の者も。

しかも彼が抱えているのは、得宗家の嫡子です。褒賞は破格でしょう。そして宗繁が邦時の伯父であることは、鎌倉中が知っています。 隠し場所として、これほど誰もが真っ先に思いつく場所はありません。

つまり彼は、邦時を抱えたまま、「まだ売られていない」という偶然の上に座り続けることになります。今日売られなかったのは運がよかっただけで、明日は誰かが先に動くかもしれない。

そして、先に動いた者が得をする。

この構造のなかで彼が最後に選んだのは、誰かに売られる前に自分が売る、という位置でした。

最後にもう一層あります。縁を切ったことを、わかってもらわなければならない。

新田方の家来として生き直すには、北条の外戚だったという経歴を打ち消す必要があります。けれど書類も記憶も消せない。だから証明が要る ── 第二節で書いたとおりです。

> さとえの見立て

 

この五日間は、恐怖の連続だったと思います。

昨日まで同じ主君に仕えていた者が、今日は自分を見る目つきを変えている。誰かが自分の屋敷を見張っているかもしれない。今夜、戸を叩かれるかもしれない。眠れない夜が五つ続いて、そのあいだじゅう、隣の部屋には九歳の甥がいる。

恐怖は、時間をかけて人の輪郭を変えていきます。初日に「仔細候はじ」と答えた男と、五日目に船田の陣へ走った男は、同じ人です。何かが壊れたのではなく、一日ずつ削られていったのだと思います。

ただし、削られた果てに彼がしたのは、崩れ落ちることではありませんでした。決めたのです。

臆病者は決断しません。決められないまま日が過ぎて、いずれ誰かに先を越されて終わります。宗繁は違いました。義理も人情も脇へ押しやって、五大院の当主として家を残す ── その一点に絞り込み、振り絞って結論を出し、実行した。

家の存続は、彼にとって数ある価値観のひとつではなく、自分が何者であるかそのものだったのだと思います。だから、そこだけは手放せなかった。

人間は弱い生き物です。自分が死ぬかどうかという場面に置かれて、五日も持ちこたえられる人が、どれだけいるでしょうか。

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 四、宗繁は「逃がした」のではなく「誘導した」

ここが、この一件でいちばん薄ら寒いところです。

『太平記』の描写を追うと、宗繁の段取りはこうなります。

1. ある夜、邦時に「船田入道に居場所が漏れた、今夜のうちに移らねばならない」と告げる。

2. 「一家揃って落ちれば怪しまれる」という理由で同行を断り、下僕を一人だけ付けて伊豆山へ向かわせる。

3. 邦時を見送るや否や、船田義昌の陣へ走り、行き先を密告して所領安堵の取りなしを求める。

4. 自ら船田の郎党とともに相模川の岸に潜み、渡ろうとする邦時を指さして「あれこそ相模太郎よ」と教える。

自分の手では傷一つ付けていません。最後まで「庇う伯父」の体裁を崩していない。それどころか、逃走先も、出発の夜も、通る道も、すべて宗繁が決めています。伊豆山は西、捕縛地点の相模川も西ですから、邦時が辿ったのは極楽寺坂を越えて腰越・片瀬へ出る道筋だったはずです。その道を指し示したのは、伯父でした。

つまり彼は甥を 逃がしたのではなく、待ち伏せ地点、罠まで歩かせたのです。

私が当初「庇うふりをして実質的に引き渡したのではないか」と推測していたことは、実は推測する必要すらなく、『太平記』の本文にそう書いてありました。

 この回りくどさは、何の証拠か

ただ、書き写しながら考え直したことがあります。

本当に冷たい男なら、もっと簡単な手があったはずなのです。縛って引き渡せばいい。 そのほうが確実ですし、手間もかからない。恩賞の交渉だって有利になるでしょう。

宗繁はそうしませんでした。甥の顔を見ながら「伊豆山の方へお落ちください」と言い、送り出し、そのうえで先回りして岸に潜んでいる。段取りとしては、明らかに回りくどい。

これは、自分では手を下せない人間のやることではないでしょうか。

自分の口から死を告げることも、甥に縄をかけることもできなかった。だから「逃がしてやる」という形式だけは、最後まで手放さなかった。やっていることは同じなのに、その形式を保たなければ、彼自身が耐えられなかった。

そう考えると、東勝寺に行かなかったことも違って見えてきます。あれは邦時を託されたからですが、託されたという大義名分にしがみついたとも読めるのです。

> さとえの見立て

漫画の五大院宗繁は、子どもに叔父上何ゆえにと問われます。わかりやすく、恐ろしい。

けれど史実(と伝えられるところ)の彼は、逆でした。やむなく決断したけれど、自分の手では下せなかった。 後ろめたかったからだと思います。

この回りくどさを、私は冷酷さの証拠ではなく、後ろめたさの痕跡として読みたい。冷たいから遠回りしたのではなく、まっすぐ見られなかったから遠回りしたのだと。

もっとも、だからといって邦時が助かるわけではありません。後ろめたさを抱えたまま罠まで歩かせるほうが、いっそ縛り上げるより、たちが悪いのかもしれない。そこは読む方に委ねたいと思います。

—

五、『太平記』が書かなかったもの ── 無数の「合理的な離反」

『太平記』は、五大院宗繁ひとりに裏切り者の汚名を着せています。

しかし、あの五日間の鎌倉を思えば、同じ計算をした者が宗繁だけだったはずがありません。名前の残らなかった離反者が、その何倍もいたと考えるべきでしょう。

宗繁が際立って記録されたのは、甥という肉親を、しかも九歳の子を売ったという 物語としての衝撃があったからだと思います。

けれど冷静に見れば、宗繁が守ろうとしたものと差し出したものは、そもそも同じ帳簿に載っていませんでした。邦時を守り抜いても、五大院という家には一円の資産にもならない。 彼は北条の子であって、五大院を継ぐ子ではないからです。実権のない他家の子と一蓮托生するよりも、自分の一門と所領を守ること ── それは、あの時代の武士としてはむしろありふれた判断だったのではないでしょうか。

 

さとえの見立て

もしこれが五大院の身内の子、まして家を継ぐべき子だったなら、宗繁は絶対に差し出さなかったと私は思います。彼が守ろうとしていたのは自分の命ではなく家ですから、家の跡継ぎを売っては意味がない。

── これは史料から証明できることではなく、あくまで私の読みです。けれど彼の行動全体が「家の存続」という一点で説明できてしまうことを思えば、そう外れてはいないのではないかと思っています。

鎌倉幕府の滅亡は、得宗家の自滅だけでもたらされたのではない。こうした無数の「合理的な離反」の集積が、あの体制を内側から溶かしたのだと私は考えています。五大院宗繁は、その群像のなかでたまたま名前が残ってしまった一人にすぎないのかもしれません。

もっとも、歴史は彼を許しませんでした。密告を受けた船田義昌でさえ彼を不快に思い、新田義貞は「欲心に義を忘れたる」として処刑を決めます。それを察知した宗繁は逃亡し、旧友にも見捨てられ、『太平記』は、乞食のような姿で路傍に餓死したという風聞を書き留めて筆を置いています。

—

 六、『太平記』は、宗繁を憐れんでいるか

ここまで書いてきて、ひとつ引っかかっていることがあります。

『太平記』は本当に、宗繁をただ憎んでいるだけなのだろうか。

たしかに言葉は厳しい。「欲心に義を忘れたる」「希有なり、不道なり」と切り捨て、義貞が処刑を決めたことも当然のこととして記します。断罪していない、とは言えません。

それでも本文を丁寧に追っていくと、この段の作りが見えてきます。

 憎んでいるのは、誰か

まず気づくのは、この段で「憎む」という語が出てくる箇所が、すべて語り手以外に帰属されていることです。

– 密告を受けた船田義昌 ──「心中には、憎きものの言ひ様かな」と思ひながら

– 世間の反応 ──「見る人毎に爪弾きをして憎みしかば」

– 処刑の決定 ── それを聞いた義貞が「げにも」と

語り手自身が「憎い」と言っている箇所は、実は見当たらないのです。断罪はすべて、登場人物の内心と世間の評判として報告されている。

 宗繁が登場する直前に、何が書かれているか

そしてここが決定的だと思うのですが、宗繁の話が始まる直前、巻十一の地の文にこうあります。

> 悲しいかな、義を専らにせんとして、忽ちに死せる人は、永く修羅の奴と成りて、苦を多劫の間に受けんことを。痛ましいかな、恥を忍びて苟も生ける者は、たちまちに衰窮の身と成りて、笑ひを万人の前に得たることを。

義に殉じて死んだ者と、恥を忍んで生き延びた者。その両方を、悲しいかな・痛ましいかなと嘆いている。

そして、この一文のすぐあとに「中にも五大院右衛門尉宗繁は」と続くのです。

つまり宗繁は、孤立した怪物として登場するのではありません。「恥を忍んで生きた者たち」という、すでに憐れみの対象として提示された群れのなかから、その一例として引き出されている。

憐れみが後から加わるのではなく、最初から枠として置かれていたということです。

 結びの筆致

その枠は、最後まで保たれます。宗繁の末路はこう書かれます。

> 三界広しといへども一身を置くに処なく、故旧多しといへども一飯を与ふる人なくして、遂に乞食の如くに成り果てて、道路の街にして飢ゑ死にけるとぞ聞こえし

この対句のリズムは、冒頭の「悲しいかな・痛ましいかな」とまったく同じです。しかも「梟悪の罪、身を責めけるにや」の「にや」── そうだったのだろうか、と断定を避けている。ざまを見ろという調子ではありません。

憐れみ → 世間の憎悪の報告 → 静かな嘆き。 これがこの段の構造でした。

そしてこの巻の書き手は、東勝寺に果てた八百余人にも、縄をかけられて引かれていく九歳の邦時にも、等しく哀れをかけています。宗繁だけが憎悪の対象として切り離されているわけではないのです。

 さとえの見立て

 

人間は弱い生き物です。自分が死ぬかどうかという場面に立たされたら、密告も裏切りもしてしまう。『太平記』の書き手は、それを知っていたのだと思います。だから義に殉じた者を「悲しいかな」と言い、生き延びた者を「痛ましいかな」と言った。どちらを選んだ者も等しく不幸だ、という認識です。

『太平記』が名作として読み継がれてきたのは、たぶんここなのだと思います。勝者を讃え敗者を罵るだけの書物なら、南北朝の終息とともに忘れられていたでしょう。人が弱さのために転ぶところを、裁きながら、同時に嘆くことができた。だから六百年以上のあいだ、読む側の人生の段階に応じて、違う読み方を許してきたのだと思います。

もう一つ、私が心を動かされるのは、『太平記』が宗繁の内面の言葉を書き残していることです。「命を失はんよりは、所領の一所をも安堵せばや」── これは語り手による非難ではなく、追い詰められた男自身の思考として置かれています。軍記物語の悪役の多くは、行為だけが記されて消えていく。宗繁には、行為に至る理由が与えられている。書き手が彼の立場を理解したうえで筆を執っている証拠だと思います。

 五大院という家に起きたこと

そう考えたとき、思い出しておきたい先例があります。

嘉元三年(1305年)の嘉元の乱で、五大院九郎高頼という一族の者が、北条氏一門の重鎮・北条時村を殺害した罪で処刑されています。この殺害は執権・北条貞時の内意を受けたものだったとも伝えられますが、乱の後始末のなかで、高頼は責めを負う側に回されました。

つまり 五大院家は、一度、得宗家に売られているのです。

主君の意を受けて人を斬り、その主君に処刑された。手を汚させておいて、始末のときには知らぬ顔をされる。得宗家のために働くとはそういうことだと、この家は身をもって知っていました。

そして二十八年後、今度は五大院の側が、得宗家の子を売ります。

並べてみます。

貞時が、自分の意を受けて手を汚した五大院の男を切り捨てた。二十八年後、その貞時の孫が、九歳で首を落とされた。売ったのは、切り捨てられた家の男だった。そしてその男も、路傍で飢え死にした。

誰も返そうとはしていません。宗繁の頭にあったのは家の存続だけですし、邦時は何も知りません。それでも、返っている。

親の因果が子に報い、という言い方があります。この場合は孫ですが。

さとえの見立て

 

宗繁が高頼の仇を討つつもりだったなどとは思いません。そんな記述はどこにもありませんし、彼にその意識があったとも思えません。

私が書いておきたいのは、彼が因果を執行したのではなく、因果が通り過ぎた場所に、たまたま彼がいたということです。そして彼自身も、同じ巡りに飲み込まれて終わります。得宗家も、五大院も、誰も勝っていません。

その二代のちに、宗繁がいます。得宗家に最も近く、婚姻でつながり、それゆえに得宗家の滅亡とともに真っ先に足場を失った男です。

さとえの見立て

宗繁の選択を、一人の人間の卑劣さとしてだけ見るのは、たぶん狭すぎるのだと思います。彼は、得宗家に寄り添うことでしか生きられない家に生まれ、その得宗家が消えた日に、寄る辺をなくしました。あの雰囲気のなかで、ほかにどうしようもなかった ── そう言い切ってしまうと甘いかもしれませんが、少なくとも『太平記』の書き手は、それをわかったうえで筆を執っているように私には読めます。

 漫画が与えたもの

『逃げ上手の若君』で、宗繁は時行の手にかかって果てます。路傍で飢え死にするのではなく、武士として首を打たれる。

これは『太平記』への応答なのだろうと私は思っています。史実(と伝えられるところ)の彼には、最期の尊厳が与えられませんでした。松井先生は、物語のなかでそれを返したのではないでしょうか。

そして、返された相手は宗繁だけではありません。

史実の邦時は、おそらく最後まで伯父を信じていたと思います。言われたとおりの夜に、言われたとおりの道を歩き、相模川の岸で縄をかけられた。そのまま白昼の鎌倉を引き回され、翌朝に首を打たれています。自分を売ったのが誰だったのか、最後まで知らないままだったかもしれません。

漫画の邦時は違います。裏切られたことをはっきりと知ったうえで、北条宗家の子として、健気に死んでいく。

騙されたまま死ぬことと、わかったうえで死ぬこと。 松井先生は、宗繁に武士としての死を与えたのと同じ手つきで、邦時にも「知って死ぬ」ことを与えたのだと思います。

なお『太平記』も、引き回される邦時の姿を見た者、伝え聞いた者で、涙を流さなかった者はなかったと書いています。憐れみは、どちらにもある。違うのは、彼が知っていたかどうかだけです。

そして『太平記』もまた、南北朝の動乱に倒れた者たちを弔うために書かれた側面を持つ作品だと言われます。結末の描き方はまったく違うけれど、どちらも同じことをしている ── 名を残してしまった一人の男を、それぞれのやり方で鎮めている。そんなふうに読めてきます。

けれど、漫画のあの場面がこれほど胸に残るのは、尊厳を返したからだけではないと思います。

兄を売られた弟が、その男を送る。

邦時は九歳で、何もわからないまま伯父の指し示した道を歩き、相模川のほとりで縄をかけられました。その弟が生き延び、成長し、やがて同じ男の前に立つ。宗繁が「実権のない幼子」として切り捨てた北条の血が、彼を討ち取る側に回るのです。

宗繁の計算は、決して間違ってはいませんでした。あの日あの場所では、たしかにあれが最も合理的な選択だった。ただ一つ、彼が勘定に入れ忘れていたものがあります。売り渡した家に、もう一人、子どもがいたことです。

合理はしばしば、取りこぼしたものによって裁かれます。五大院宗繁の物語が今も語られるのは、彼が特別に卑劣だったからではなく、この取りこぼしが、あまりにも見事に効いてしまったからなのかもしれません。

 さとえの見立て

 

なお『太平記』巻十の記述から、時行もまた常葉前の子、つまり宗繁の甥だった可能性が指摘されています(『逃げ上手の若君』では兄弟の母を別に設定しています)。もしそうだとすれば、宗繁は一人の甥を売り、もう一人の甥に討たれたことになります。断定はできませんが、因果というものを考えずにはいられません。

—

 おわりに

五大院宗繁を「卑怯者」として片付けることは簡単です。

けれど、彼が得宗被官という立場にあったこと、落城から五日間の残党狩りのなかで所領の保証人を失っていたこと、そして伊豆山へ向かう道を自ら選ばせたこと ── これらを重ねてみると、彼の行動には一貫した、身も蓋もない合理性が見えてきます。

『太平記』は一人の「裏切り者」を描きました。けれど歴史の実相は、もっと複雑で、もっと人間的だったのだと思います。

いずれ極楽寺坂から腰越・片瀬へと、邦時が辿ったはずの道を自分の足で歩いてみたうえで、この続きを書きたいと思っています。

—

 注記

– 「宗繁」という名は『太平記』によるものです。同時代史料である『北条貞時十三年忌供養記』(元亨三年)には「五大院右衛門太郎高繁」と見え、岡見正雄氏らは「宗繁」を高繁の誤記と指摘しています。本記事では通りのよい「宗繁」で統一しました。

– 本記事の中心史料である『太平記』は軍記物語であり、記述をそのまま事実と見なすことはできません。日付・経緯についても、あくまで『太平記』および同書に依拠した通説として読んでいただければと思います。

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