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婉容——清朝最後の皇后、その生涯① 郭布洛家の栄光から紫禁城へ

婉容——最後の皇后、その生涯の始まりと終わり

郭布洛家の栄光から、消えた門へ

一 郭布洛家の栄光

八旗に列した一族

婉容が生まれた郭布洛家は、清朝の中国征服において功績をあげ、八旗に列した満州族の名家である。軍事貴族としての血と誇りは、代々受け継がれていた。

八旗とは、1615年にヌルハチが正式に設立した満州族独自の軍事・政治組織である。満州族・モンゴル族・漢族を統合し、黄・白・赤・青の四色それぞれに「正」(縁なし)と「鑲」(縁あり)の二種からなる八つの旗で構成された。

中でも正黄旗・鑲黄旗・正白旗の三旗は「上三旗」と呼ばれ、皇帝直属の最高位の旗として宮廷の警備と政務を担った。残る五旗は「下五旗」として皇族・貴族が率いた。

婉容は満洲正白旗——上三旗のひとつの出身である。単に「八旗に列した家柄」ではなく、皇帝直属の最高位の旗の出身だった。溥儀自身は正黄旗である。ふたりはともに、八旗制度の頂点に立つ存在だった。

曽祖父·祖父の時代

婉容の曽祖父は咸豊年間に副総大将を務め、郭布洛家の軍事貴族としての地位の礎を築いた。

その子、婉容の祖父·郭布洛長順は、咸豊·同治·光緒の三代の皇帝に仕え、一族の栄光の頂点を極めた人物である。卓越した軍功により烏日台将軍、吉林将軍といった要職を歴任し、数十年にわたり辺境を守り続けた。新疆ウイグル自治区における反乱鎮圧、ロシアの侵攻への抵抗にも尽力した。

光緒年間には吉林将軍に昇進。官僚制度の改革、匪賊の掃討、災害救助などで政治的功績を挙げたほか、122巻に及ぶ地方史『吉林志』の編纂を監督した。この書物は中国東北部の歴史と地理を研究する上で今なお重要な資料として残されている。

父·郭布洛栄源

婉容の父·郭布洛栄源は北京帝国大学を卒業した一級官吏であった。開明的な思想の持ち主で、男女平等を主張し、子女の教育を重視した。

婉容の母は皇族の出身で、乾隆帝にまで遡れる血筋を持つ。したがって婉容と溥儀は、共に乾隆帝の五代目の子孫ということになる。

私の見立て:郭布洛家は八旗に列してはいたものの、一族が真に力を持つようになったのは曽祖父の時代からであり、清朝の名家の中では比較的新しい勢力であった。皇帝一家との血縁を結ぶことは、その家格をより確固たるものにするための強い願望でもあったのではないだろうか。注目すべきは、清朝がすでに滅亡して10年が経っていたにもかかわらず、父がなお銀20万両という莫大な賄賂を費やしてまで溥儀の皇后の座を求めたという事実である。もはや実権を持たない皇帝との縁組みに一族の財産をほぼ使い果たす——そこには、軍事貴族として歩んできた一族が、「皇室との血縁」によって名誉をさらに高めようとした、並々ならぬ執念が感じられる。上三旗の出身として、皇后の座は身分不相応な望みではなく、むしろ「ふさわしい場所」という感覚があったのではないだろうか。

二 婉容という女性

受けた教育

父·栄源は、娘の婉容に兄弟たちと同様に音楽·将棋·書道·絵画などの伝統的な教育を受けさせただけでなく、英語の家庭教師も雇い、中国古典の素養と西洋の知識を併せ持つ女性に育てた。

清末期の貴族階級の女性で、漢学と洋学の両方に精通した人物は決して多くない。名家の風格と才能に溢れた婉容は、まさに稀有な存在であった。

さとえの見立て:父は、美貌と才能に恵まれ、中国と西洋の両方の教育を受け、英語にも堪能で、皇室外交にも対応できる婉容こそ「20世紀の皇后」にふさわしいと確信したのではないだろうか。光緒帝の皇后まで血筋が最優先されてきた宮廷の慣習に対し、北京大学出身の開明的な父は、知性·美貌·語学力を兼ね備えた近代女性像に皇后の理想を見出していたように思われる。

入宮のための犠牲

しかし宮廷は、父の理想とはかけ離れた場所であった。婉容を皇后として入宮させるために、父は役人への賄賂として銀20万両を費やし、家財をほぼ使い果たすことになった。

兄弟たち

婉容の兄·潤良は溥儀の姉と結婚し、弟の润麒は溥儀の妹と結婚した。郭布洛家と清朝皇室は、婉容の入宮によって二重に縁で結ばれることとなった。

弟·润麒は日本の陸軍士官学校に留学し、満州国時代には溥儀の護衛を務めた。複数の言語に堪能な彼は、貴族の息子から戦犯、そして一般市民へと波乱の生涯を送った。晩年は学者·医師に転身し、姉·婉容の汚名を晴らすことに尽力した。「婉容は狂人ではなく、封建時代の結婚と時代の悲劇の犠牲者であった」と繰り返し訴え続けた。

婉容の姪は美術編集者として美術集を出版し、润麒の息子は地震科学者となった。郭布洛家の血は、それぞれの形で後世へと受け継がれている。

三 入宮――消えた門、鬼門、そして待つだけの皇帝

紫禁城の門が語るもの

紫禁城の門は、言葉よりも雄弁に語る。誰がどの門を通るか——それは、その人物が何者であるかの無言の宣告であった。

清朝の宇宙観において、方角は運命と結びついていた。南は陽·天子·正統·生の方角。北は陰·死·逃亡·終わりの方角。東は鬼·死者·不吉の方角。紫禁城の門はこの思想を体現していた。

皇后が通るべき門

本来、皇后が通るべき門は大清門と午門である。天安門広場の南端に位置する大清門は、皇帝·皇太后·皇后のみに許された清朝最高格式の門。皇后は婚礼の日にのみ、この門を通ることができた。

そして午門——その背後には太和殿·中和殿·保和殿、清朝の権力の中枢が広がる。南の門から入るということは、権力の中心へと直接つながることを意味した。午門から入ることは、単なる儀礼ではなく「この女性は王朝の正統と権力に連なる存在である」という宣言だった。

午門には五つの通路がある。中央は皇帝専用——ただし例外が二つある。皇后は婚礼の日のみ中央を通ることができた。また、科挙の首席合格者三名は、合格発表の日に一度だけ中央を歩くことを許された。中央の左右は文官用・武官用。そして両端の脇の小さな通路が、それ以外の者のための通路である。「午門を通る」といっても、どの通路を通るかで身分が決まる。皇后として正式に入宮するとは、皇帝と同じ中央の道を歩くことを意味した——それは石と空間で刻まれた、王朝の頂点に立つ者の宣言だった。

側室の門と西太后

側室が入る門は北の神武門——陰·逃亡·終わりの方角の門である。秀女として選考を受けた女性たちはこの門から入り、不合格となれば同じ門から出た。

西太后もそのひとりだった。彼女が神武門をくぐったのは、秀女として選ばれたからである。一方、正室である東太后は大清門から入城した皇后だった。通った門が、ふたりの格式の違いをそのまま語っていた。

にもかかわらず西太后は東太后と同等、いやそれ以上の権力を握ろうとした。清朝においてある皇族が西太后に向かって「神武門からお入りになった方は神武門からお帰りになったら」と言い放ったのは、「あなたが通った門を忘れたのか」という痛烈な一言だった。

婉容が通った門——東華門

婉容が通ったのは東華門である。東——鬼·死者·不吉の方角の門。清朝において、皇帝·皇后·王族の棺はすべてこの門を通って運ばれた。嘉慶帝の時代、白蓮教の乱の反乱軍がここから紫禁城を攻めようとした。官吏たちの日常的な出入り口でもあった。宮廷の人々が「鬼門」と呼んだ門である。宮廷の人々が「鬼門」と呼んだ門である。(※ここでの「鬼門」は日本語の鬼門=北東の方角とは異なり、中国語で「死者・鬼魂が出入りする門」の意味。棺が運び出される門であることからそう呼ばれた。

私は故宮を訪れたことがある。午門をくぐった瞬間、映画『ラストエンペラー』の即位式の場面がそのまま目の前に広がり、思わず息をのんだ。あの圧倒感は、実際に立ってみなければわからない。五つの門楼を持つ巨大な「凹」字形の城壁が左右に広がり、「ここから先は別の世界だ」と全身で感じさせる。一方、東華門はガイドに「見る価値なし」と言われて素通りした。実際に見ていないが、午門と同じ「門」という字がついていても、まるで別物だということは、午門の圧倒感を知っているからこそよくわかる。婉容が通ったのは、その「見る価値なし」と言われた門だった。

なぜ東華門だったのか

理由は政治的現実にあった。1922年の時点で、清王朝はすでに10年前に滅亡していた。「清室優待条件」により、外廷——大清門·午門·三大殿を含む南側——は北洋政府の管轄下に置かれていた。溥儀の小朝廷が使えるのは、乾清門以北の内廷のみ。婉容が大清門と午門を通れなかったのは、意図的な格下げではなく、滅亡した王朝が置かれた厳しい現実だった。

大婚儀礼処と北洋政府の間で幾度もの協議が重ねられた。その結果、長年閉鎖されていた東華門を婉容の御輿のためだけに特別開放することが、例外的に決定された。東華門の左柱には赤い額が掲げられ、「参列者および祝賀者は皆、神武門から入場すること」と記された。鬼門と呼ばれた門を、できる限りの配慮で皇后専用に開く——それが、滅亡した王朝に残された精一杯だった。

同じ日、同じ時刻、側室の文繡は神武門から入城した。

乾清宮で待つ皇帝

そして溥儀は——乾清宮で待っていた。外廷には出られない。花嫁を門まで迎えに行く自由もない。17歳の皇帝は、自分の宮殿の半分にしか立ち入れなかった。「式典は慌ただしく、皇帝の直接の出迎えもなかった」と記録は伝えるが、それは冷淡さではなく、無力さだった。

私の見立て:婉容は、歴史上唯一、大清門からも午門からも入れなかった皇后である。本来の格式を一度も経験できないまま、皇后となった。しかしその消えた門の意味は、今や二重に抹消されている。大清門は取り壊され、その跡地には毛沢東記念館が建てられた。天安門には毛沢東の巨大な肖像が掲げられている。婉容が通るべきだった門を物理的に消し去り、新たな権威の象徴をその場所に置く——旧王朝の最も神聖な象徴の上に、征服者が自らの記念碑を建てるという行為は、古来より権力が行ってきた最も雄弁なメッセージだ。婉容が通るべき門はもう存在しない。その消えた門の意味を知る人も、今や少ない。二重の抹消がそこにある。

四 紫禁城での生活

储秀宮——西太后から婉容へ

婉容が住んだ储秀宮は、「徳と才能を養う」という意味を持つ宮殿である。1655年(順治12年)に改修が行われ、1884年(光緒10年)には西太后の50歳の誕生日を祝うため、銀63万両を投じて大規模な再建がなされた。それまで別々であった翊坤宮と储秀宮が連結され、四院からなる壮大な複合施設が形成された。かつて西太后が住んだこの宮殿は、紫禁城の中でも最も近代的な場所であった。

私の見立て:銀63万両という金額がどれほどのものか——道光帝の時代、宮廷全体の年間支出が銀20万両を超えなかったという記録がある。つまりこの改修工事一件だけで、道光帝の宮廷三年分以上の予算を使い果たした計算になる。倹約で知られた道光帝が聞けば、卒倒しただろう。

婉容は1922年の入宮後、ここに居住した。彼女は储秀宮の奥にあった麗景軒殿を西洋風のレストランに改築し、クリスタルのシャンデリア、西洋ピアノ、西洋式の浴室まで導入した。

西洋化された日常

宮殿内の西洋風レストランで、婉容は溥儀にナイフとフォークの使い方、ステーキの食べ方、コーヒーの飲み方を直接教えた。

アメリカ人女性教師イザベル·イングラムを雇い英語を学び、溥儀と婉容は互いに「ヘンリー」「エリザベス」と英語で呼び合った。宮殿内には電話も設置され、皇帝のいる养心殿と婉容のいる储秀宮がつながった。

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自転車という「反乱」

そもそも当時の妃嬪たちは、重い髪飾りをつけ、ぽっくりのような高底の靴を履いていた。大拉翅と呼ばれる正式な頭飾りは、青い繻子で覆われた鉄の枠にカワセミの羽根飾りや宝石をあしらった大きなもので、頭に乗せると重心が高くなり、少しでも動きが激しければ揺れてしまう。高底の靴は足首への負担が大きく、普通に歩くだけでも捻挫の危険があった。現代の時代劇の女優でさえ「頭が重くて、足首をひねりそうで怖かった」と語るほどである。だからこそ妃嬪たちは輿に乗るか、侍女に手を支えてもらいながらゆっくりと歩くしかなかった——それが宮廷の「当たり前」であった。

婉容と溥儀は共に自転車を愛し、宮廷にはイギリス·ドイツ·フランスから輸入された数十台の新品の自転車が置かれていた。自転車が「鉄のロバ」と呼ばれ非常に高価だった時代に、婉容は頻繁に最新式の自転車の購入を命じた。

侍女に支えてもらいながらゆっくりと歩くしかなかった場所を、婉容は自分の意志で速く走り抜ける——周囲が困惑したのは当然だった。宦官たちは皇后が転倒するのを防ぐために小走りで守らなければならなかった。

自転車に乗る際には大拉翅が邪魔となるため、婉容はそれを外して銀の簪で髪を結った。服装の問題もあった。旗袍(チーパオ)は足元まで隠れる丈でなければならず、その下にはズボンのようなものを履いているが、それはあくまで下着と同じ扱いであった。自転車をこげば裾がめくれ、ズボンが露わになる——それは現代でいえば下着を見せているのと変わらない、とんでもない破廉恥とみなされた。さらに足先を見せることも重大なタブーであった。清朝において女性の足には性的な意味合いがあり、足元を露わにすることは著しく貞操に反する行為とみなされていた。刺繍入りの靴の先がのぞく姿は、単なる「だらしなさ」ではなく、もっと深いところで宮廷の規範を犯していた。動きやすくするために長すぎる旗袍をベルトに押し込んだ姿は、「皇后にあるまじき醜態」と映ったことだろう。伝統的な靴では自転車に乗れないため、バレーシューズのようなものを作らせたことも、周囲を呆れさせた。

溥儀は婉容が自由に自転車に乗れるよう、紫禁城の各宮殿の敷居を鋸で切り落とし、高い階段には木製のスロープまで設置した。これがいかに「甚だしい無礼」であったか——敷居(門槛、mén kǎn)の意味を知れば、その衝撃の大きさがわかる。

敷居はもともと実用的なものであった。雨水の逆流を防ぎ、埃や砂を遮断し、蛇·ネズミ·虫を隔離し、扉を摩耗から守る。しかし中国では古来、敷居は単なる建築部材を超えた象徴的な意味を持っていた。『礼記』には「君主の門に出入りする役人や学者は、敷居を踏んではならない」と記されており、踏まずにまたぐことが主人への敬意の表れとされた。敷居の高さはそのまま家の格式と社会的地位を示し、官僚や裕福な家ほど高い敷居を用いた。現代日本語でも「敷居が高い」という表現が残り、「敷居をまたがせない」とは絶縁を意味する。紫禁城の敷居は、清朝の秩序と権威そのものの象徴であった。その敷居を鋸で切り落とす——それは婉容のために秩序を文字通り切り捨てた行為であり、当時の宮廷人たちの目には、王朝の威厳への冒涜以外の何物でもなかった。

孤独な皇后

しかし婉容の宮廷生活は孤独であった。溥儀は婉容とほとんど寝床を共にせず、結婚後2年間、储秀宮を訪れたのは「ほんの数回」だったという。

彼女はしばしばランプの下で溥儀に英語で手紙を書き、「エリザベス」と署名した。夜の静寂の中では、鏡の前に一人で座り、自虐的に自分の姿を見つめていた。皇帝と皇后が寝床を共にしないことは宮廷では周知の事実であった。

息苦しい宮廷生活の中で、婉容はあらゆる楽しみを見つけようとした。犬を飼い、牛や豚のレバーを与えた。当時の一般民衆には牛や豚のレバーさえ口にできない者が大半であった——犬の餌にするなど、想像の及ばない贅沢であった。そして水タバコ(シーシャ)の習慣も芽生えた。

当時の中国における「喫煙」とは、現代の紙巻きタバコではなく水タバコのことである。水を通して煙を吸うこの嗜好品は、宮廷でも広く楽しまれていた。そこに目をつけたイギリス人が、水タバコの中にアヘンを混ぜることを考えついた。これが中国全土にアヘン中毒を広め、アヘン戦争へとつながる歴史的な経緯である。婉容もまたこの流れの中で、水タバコからアヘンへと引き込まれていった。

私の見立て:映画『ラストエンペラー』では、婉容のアヘン吸引が葉巻のようなものを使う場面として描かれているが、これは史実と異なる。当時の喫煙文化を理解すれば、水タバコという入口があってこそのアヘン中毒であり、その描写なくして婉容の悲劇の経緯は正確に伝わらない。

五 紫禁城を去る日

1924115日、馮玉祥がクーデターを起こし、溥儀にその日のうちに紫禁城を去るよう命じた。その時、溥儀は储秀宮でリンゴを食べていたという。

溥儀は沈黙を守った。文繡は「出て行ってもいい」と提案したが、婉容は断固として反対した。

しかしその夜、婉容は溥儀に同行して紫禁城を後にした。去り際に通ったのは、東華門ではなく内廷の北側にある神武門であった。

私の見立て:入宮の日、婉容は東華門(鬼門·東の方角)から入った。そして去る日、通ったのは神武門——陰·逃亡·終わりの方角、北の門である。側室が入る門から、婉容は紫禁城を出た。本来の皇后の格式で入ることも叶わず、去り際もまた正式な門ではなかった。

神武門は、王朝の終わりの門でもある。1644年、明の崇禎帝はこの門を出て景山へ向かい、自ら命を絶った。その日、明王朝は終わった。そして1924年、溥儀と婉容もまたこの門を出た。彼らは二度と故宮に戻ることはなく、清王朝もまたこの瞬間に真の終わりを迎えた。通った門が、その人物の運命を語る——婉容の生涯はまさにその言葉通りであった。

私の見立て:入宮の日に鬼門·東華門をくぐった婉容は、去る日もまた、自らが選んだわけではない運命に従った。父が銀20万両を費やして送り込んだ宮廷は、彼女に皇后の名を与えたが、皇后として生きる場所は与えなかった。消えた門、待つだけの皇帝、孤独な夜——それでも婉容は最後まで、自分が「皇后である」という事実に抗わなかった。それは誇りだったのか、それとも運命への服従だったのか。映画『ラストエンペラー』では、溥儀が紫禁城を退去する場面で、まぶしい光の中、軍隊の広場を抜けて南の門から出るように描かれている。しかしこれはおかしい。その時点で南側の外廷——大きな南の門を含む——はすでに北洋政府の管轄下にあり、溥儀が南から出ることはあり得なかった。実際に通ったのは北の神武門である。ベルトリッチは門を「視覚的な詩」として使った。閉ざされた暗闇からまぶしい外の世界へ——映画としては美しい。しかし紫禁城の門は、単なる背景ではない。誰がどの門を、どの方向に通るか——それはその人物が何者であるか、いかなる運命を辿るかの宣告だった。その意味を、ベルトリッチは理解していなかったのだと思う。これは根本的な、東洋と西洋の見方の違いでもある。西洋人の目には、閉ざされた囚われの世界からオープンな世界へ出ていく——解放の場面に映る。しかし東洋人の目には、神武門を北へ出ることはまったく別の意味を持つ。陰、逃亡、終わり——王朝の終焉の方角だ。1644年、崇禎帝が同じ門を通って景山へ向かい、命を絶った日と同じ。ベルトリッチが「解放」として撮った場面を、私たちは「滅亡への一歩」として見る。

私は実際に神武門を出てみた。そこに広場はない。北向きの門を出れば、すぐ目の前に景山が迫っている。光の変化でまぶしさに顔をしかめるような場所では、まったくない。ベルトリッチが描いた門とは、別の場所だ。娘と一緒に景山を登りながら、「崇禎帝がよくここに登ったものだね」と話した。山の中腹には、崇禎帝が首を吊ったとされる場所がある。紫禁城を追われた末に自ら命を絶った皇帝と、同じ神武門から出た溥儀。振り返れば、紫禁城の屋根瓦が金色に重なって美しく輝いていた。景山で命を絶った崇禎帝も、神武門から押し出された溥儀も——ともに、過酷な現実に対処する術を何も持たないまま王朝の終わりを迎えた皇帝だった。同じ門が、二つの王朝の終わりを見ていた。

六 最期——延吉、1946年

逃亡・捕縛・最後の収監

満洲国が崩壊した1945年8月、婉容は皇室一行とともに逃亡した。その混乱の中、溥傑の妻・嵯峨浩は婉容のそばにいて、その状態を直接目撃している。アヘン中毒はすでに彼女のすべてを蝕んでいた。周囲の人間が誰かもわからない。下の世話をさせながらも、侍女や宦官に指図するように命令し続けた。「皇后である」という感覚だけが、最後まで残っていた。

やがてソ連軍に捕らえられ、中国東北部の各地を移送・収監された。嵯峨浩とは途中で離れ、以降は身近な人間による記録は存在しない。

延吉の刑務所

伝えられるところによれば——出典は必ずしも明確ではないが——婉容は吉林省延吉市の刑務所の、暗く湿ったコンクリートの倉庫に収容された。老朽化した二段ベッドの下段で眠り、失禁と衰弱に苦しみ、アヘンを断たれると極度の苦痛に襲われ、床を転げ回り、叫び泣いた。

看守によれば、死の直前、体重はわずか約30キロほどに痩せ細り、目は窪み、歯はなく、膿に覆われ、まるで骸骨のようだったという。

それでも——指図する声は止まなかった。看守もお手上げだった。糞尿にまみれながらも、侍女に命じる皇后の声だけは、最後まで消えなかった。アヘンがすべてを奪った。記憶も、身体も、現実の認識も。しかし「皇后である自分」だけは奪えなかった。

死と埋葬

1946年6月20日午前5時頃、婉容は獄中で息を引き取った。中国の伝統的な年齢計算で40歳であった。刑務所の記録には「容氏、40歳、偽皇后」と記されていた。死因はアヘンの禁断症状と長期にわたる病気によるものとみられている。

遺体は当初、監獄のそばの溝に投げ捨てられた。その後、心優しい看守が棺を用意し、延吉南部の山奥の名もなき荒野に密かに埋葬したという。墓石もなく、弔辞もなく、彼女の遺体は今も見つかっていない。

私の見立て:刑務所の記録には「偽皇后」とある。父が銀20万両を費やして手に入れた名が、死の瞬間にその二文字で消された。通るべき門を通れなかった。皇后として生きる場を与えられなかった。そして死後、皇后と呼ばれることさえ許されなかった。門は消え、称号は抹消され、墓も見つからない。三重の抹消がそこにある。

婉容は皇后のあかしである鳳凰の衣をまとっていた。しかし清朝はすでに10年前に滅んでいた。溥儀もまた、実権を持たない偽皇帝だった。彼女は最初から、皇后の形だけを与えられただけだった。通るべき門は閉ざされ、歩くべき中央の通路は踏めず、儀礼は完成せず、清朝の皇后にはなれなかった。紫禁城は遠く離れ、満州国も崩壊した。衣装は剥ぎ取られた。最後の公式文書は「偽皇后」と記録した。しかし婉容は、衣装が消えても、宮殿が消えても、正気が消えても、最後まで「自分は皇后だ」と信じ続けた。それは哀れなことなのか。それとも、誰にも奪えないものを持ち続けたということなのか。

伝承——若い看守

 

最期の一ヶ月、一人の若い看守がひっそりと婉容の世話をし、食事や水を運び、死後には葬儀の手配まで手伝ったという話が伝わっている。真偽は確認できない。

私の見立て:この話は後から付け加えられたのではないか、とふと思う。あまりにも凄絶な死に、誰かが救いを置きたくなったのではないか。歴史にはそういう伝承がつきものだ。しかし——もし本当に、何の義務もない一人の看守が、骸骨のように痩せ細り、意識も朦朧とした女性に、ひっそりと人間としての尊厳を手向けたとしたら、それもまた婉容という人が人の心を動かし続けた証かもしれない。若い看守が実在したかどうかにかかわらず、誰かがその話を語り継ぎたいと思った——それが、婉容の最後の肖像なのかもしれない。

*この記事は、日本語ブログ「還暦散歩」晩清シリーズの一部です。

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