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清朝末期シリーズ|粛親王家 関連記事 川島芳子——二つの祖国を持ち、どちらにも帰れなかった女性

川島芳子——二つの祖国を持ち、どちらにも帰れなかった女性

愛新覚羅顯㺭 1907年~1948年(享年42歳)

センセーショナルな伝説ではなく、父の遺志を生きた一人の女性の真実

川島芳子については、興味本位のセンセーショナルな著作が数多く出版されてきた。しかし高校の同級生たちの証言が示すように、史実とかけ離れた描写も少なくない。彼女の本当の姿を知るためには、一次資料と直接の証言に立ち返ることが重要である。

川島芳子——その名は「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」として語られてきた。日本人からも中国人からも様々な偏見を持って取り上げられ、その実像は長年にわたって歪められてきた。

しかし父・粛親王善耆の生涯を知り、松本での少女時代を知り、そして遺されたの詩を読むと、まったく異なる姿が浮かび上がってくる。

I. 清朝の皇女として生まれて

父・善耆の第14王女

川島芳子は1907年、粛親王・善耆の第14王女として北京に生まれた。本名は愛新覚羅顯㺭。

父・善耆は清朝末期の改革者として知られ、明治維新のような立憲君主制による清朝再興を熱望していた。芳子が4歳の時、辛亥革命が勃発し清朝は崩壊した。

父は芳子に清朝復活の望みを託し、7歳の時に旧松本藩士・川島浪速の養女とした。川島浪速は義和団事件の際に紫禁城を砲撃から守り、善耆とともに近代警察制度を作り上げた人物——父が最も信頼した日本人だった。

7歳の少女が異国に渡り、言葉も文化も異なる家庭で育てられた。それは父が娘に課した、清朝復興への使命だった。

II. 松本での少女時代

馬で通学した「清朝のお姫様」

芳子は養父・川島浪速の邸宅があった松本市浅間温泉に住み、旧制松本高等女学校(現・蟻ヶ崎高校)に通った。

当時の松本市民は驚いた。芳子は浅間温泉から学校まで、毎日馬に乗って通学していたのである。「さすが清朝のお姫様」と噂され、いずれ清国に帰るのだろうと話題になった。

現在の蟻ヶ崎高校の敷地には、芳子が馬を繋いでいた木が今も残されている。標識はないため、知る人ぞ知る場所だが、「川島芳子を偲ぶ会」のメンバーに教えてもらうことができる。

私の高校の恩師も、川島芳子が馬で学校に通っていたのを実際に目撃していた。「敗戦によって日本国がただの悪者のように中国でいわれているが清朝の文化遺産を守るために必死で努力していた日本人がいることを忘れないでほしい」——恩師の言葉は今も心に残っている。

卒業できなかった理由

1922年、実父・善耆が旅順で崩御した。芳子は親族として葬儀に参列するため日本を離れた。

葬儀は満鉄の10両編成の特別列車で親族全員が北京に入るという盛大なものだった。学校側は欠席を了承していたが、その間に校長が交代。新しい校長は出席日数不足を理由に芳子を退学処分とした。

そのため卒業名簿に川島芳子の名前は残っていない。親王の葬儀がどれほど盛大で時間がかかるものか、理解されなかったのだろう。

III. 清朝復興のために——二つの祖国の間で

蒙古族将軍の息子との政略結婚

20歳の時、芳子は蒙古族の将軍の息子と結婚した。しかしまもなく離婚している。一説には、その相手が清朝復興にあまり熱心ではなかったためだとも言われている。

この結婚も離婚も、芳子の行動はすべて「清朝を復活させる」という父の遺志に貫かれていた。

断髪・男装——覚悟の表れ

17歳の時、芳子は断髪し男装するようになった。これについて様々な憶測が語られてきたが、高校の同級生たちの証言は明確だ。

芳子は清朝復興のために蒙古の将軍の息子と政略結婚を考えていた人間であり、「いざとなれば自分も戦う」という覚悟の表れだった。

日本軍への協力——そして「用済み」へ

清朝復活を願い、芳子は日本軍に協力して様々な工作に関わったとされる。満州国は建国されたが、溥儀は傀儡であり、清朝の復活とは縁遠いものだった。

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芳子はやがて利用されるだけ利用され、用済みとなった。日本軍部からは「始末するように」という命令まで出ていたとされる。

清朝復興という父の遺志のために日本に渡り、日本のために働き、そして日本軍に見捨てられた——これが「日本に協力したスパイ」という一言では語れない芳子の現実だった。

IV. 史実と「センセーショナルな描写」

映画・著作による歪曲

川島芳子については、興味本位のセンセーショナルな著作や映画による描写が数多く出てきた。映画『ラストエンペラー』でも、史実とは異なる姿で描かれている。

項目

センセーショナルな描写

同級生・関係者の証言

性的指向

レズビアンとして描写

そのような性癖はなかった

アヘン

アヘン中毒として描写

知性的・厳格でアヘンとは無縁

断髪・男装の理由

養父に犯されたためとする本も

清朝復興への覚悟の表れ

行動の動機

日本軍のスパイとして利用された

父の遺志・清朝復興への信念

父・善耆は日本の明治維新に倣い、清朝皇帝による立憲君主政を目指して自らの子供たちに日本語を学ばせた人物である。その父の言いつけを守り、人生のすべてを清朝の復興にかけた芳子が、清朝の皇后をアヘン中毒にするはずがない。

川島は義和団の乱の時に紫禁城が砲撃されるのを防いだ人物であり、松本では清朝の文化遺産を研究していた。そのような人物が養女を虐待するはずがない。

V. 1948——処刑と遺された詩

「中国人でありながら日本に協力した裏切り者」として

1948年、川島芳子は中国国民党政府により銃殺に処せられた。「中国人でありながら日本に協力した漢奸(民族の裏切り者)」として。享年42歳だった。

処刑後、衣類のポケットに一枚の紙が見つかった。そこには詩が記されていた。

家あれども帰りえず

日本にも帰れず、中国にも帰れない。二つの祖国を持ちながら、どちらからも「裏切り者」とされた女性の、最後の言葉だった。

清朝の皇女として生まれ、日本人として育てられ、中国人として処刑された。川島芳子の生涯は、国家と個人のはざまで翻弄された悲劇である。

VI. 今も残る縁——松本市正麟寺

川島芳子を偲ぶ会

毎年325日頃、松本市のお寺で法要が行われている。「川島芳子を偲ぶ会」が主催するこの法要には、芳子の真の姿を伝えたいと願う人々が集まる。

20233月、「川島芳子を偲ぶ会」のメンバーに案内していただき、初めてお参りすることができた。

正麟寺——川島浪速と芳子が眠る場所

川島芳子の墓は、長野県松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある。養父・川島浪速の墓に合葬される形で眠っている。

墓のそばには、粛親王善耆の書が刻まれた石碑が立っている。激動の時代を生きた父と娘、そして日中の歴史をつないだ川島浪速——三者の縁が、この場所に今も静かに残っている。

松本市正麟寺を訪れる機会があれば、ぜひ川島芳子の墓にお参りしてほしい。そしてそのそばに立つ善耆の書の石碑にも、目を向けてほしい。清朝復興を夢見て娘を日本に託した父の思いが、そこにある。

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参考:川島芳子記念室設立実行委員会『真実の川島芳子 秘められたる二百首の詩歌』

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