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忘れられた忠臣 – 小平総治と清朝最後の日々

歴史の光と影

歴史は、しばしば勝者の視点から語られます。辛亥革命後の中国近代史において、革命派の孫文を支援した宮崎滔天は広く知られる一方で、清朝の大義に殉じた人々の物語は、ほとんど語られることがありません。

今回は、そんな「歴史の陰」に隠れた人物、小平総治の生涯をご紹介します。

清朝への献身

1876年、長野県穂高村(現安曇野市)に生まれた小平総治は、1900年の義和団事件で通訳として従軍したことを契機に、清朝末期の中国で重要な役割を担うことになります。

彼は中国初の近代警察制度の確立に尽力し、その手腕は高く評価されました。

しかし、1911年の辛亥革命により清朝が崩壊すると、小平の人生は大きな転換点を迎えます。

1912年、清朝の重鎮である粛親王が北京から旅順へ脱出する際、小平は王府の重要な事務官として仕えることを選びました。

これは単なる職務上の関係ではありませんでした。

粛親王との絆

粛親王は小平をこう評しています:
「君が余のために尽くしてくれたことは、肉親でも及ばないほどである」

この言葉からは、単なる君臣関係を超えた深い信頼関係が窺えます。

小平は亡命生活を送る粛親王の心の支えとなり、共に登山をし、詩を詠み、囲碁を楽しむなど、親王の精神的な支柱となったのです。

文化遺産の守護者として

小平の真価は、文化の保存者としても発揮されました。

1928年には『粛忠親王遺集』を出版し、粛親王の詩作を後世に残しました。

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また、彼が昭和6年に紫禁城から持ち帰った白松の種子は、郷里の知人たちの手によって大切に育てられました。特に望月喜代美氏が育てた苗木は、穂高神社に献木され、立派な木に成長しました。

白松の木は立派に成長し、この木のいわれを知った昭和天皇から琵琶歌を賜りました。

研究者としての功績

小平は実務家としてだけでなく、研究者としても重要な功績を残しました。

昭和15年には『宋徽宗欽宗二帝の満洲配流』を著し、中国史研究に貴重な貢献を果たしています。

この著作は、彼の深い歴史知識と研究への情熱を示す重要な証となっています。

満州国での活躍

1932年の満州国建国後は、溥儀政権下で要職を務め、文化事業にも携わりました。

1940年、病を得て郷里に戻るまで、一貫して東アジアの文化保護に尽力し続けました。

歴史の再検証に向けて

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉がありますが、歴史の真実は、必ずしも勝者の物語だけではありません。

小平総治の生涯は、動乱の時代にあって、自らの信念を貫き、文化の保存に尽力した一人の日本人の物語です。

遺産と記憶

彼の収集した文物は現在、遼寧省博物館に保管され、その功績は形を変えて今日まで残っています。

歴史の表舞台には立たなかったかもしれませんが、小平総治の生涯は、私たちに歴史を多角的に見る重要性を教えてくれているのではないでしょうか。

長野県穂高神社に残る白松の木は、彼の文化保護への情熱と、日中の文化的絆の象徴として、今もなお静かに見守り続けています。

 

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