ドラマ燕雲台に出てくる蕭胡輦(しょう・これん、?-1007年)。彼女は優れた女性将軍でした。中国史において、女性の軍事統帥は極めて稀な存在です。伝説の花木蘭を除けば、実在の記録として残る女性将軍はわずかしかいません。その中でも特筆すべき人物です。彼女は「遼代の花木蘭」と称えられながらも、最後は政治闘争に敗れ、悲劇的な最期を遂げました。
名門に生まれた皇族の姫
蕭胡輦の出自は、遼朝でも最高位の血統でした。母は燕国大長公主・耶律呂不古(遼太宗の長女)、父は南院丞相・蕭思温。つまり彼女は遼太宗の外孫女であり、後に承天皇太后となる蕭綽(蕭燕燕)の姉でもありました。
若くして遼太宗の次子・耶律罨撒葛(遼穆宗の実弟)に嫁ぎます。これは世代的には「舅甥婚」にあたる政略結婚でしたが、父・蕭思温の政治的布石でもありました。
夫の死後、蕭胡輦は「皇太妃」の称号を授けられ、遼朝初の女性皇太妃となります。さらに夫の斡魯朵(禁軍組織)を引き継ぎ、遼景宗時代の重要な政治勢力へと成長していきました。
西北の守護者――軍事的才能の開花
蕭胡輦の真価が発揮されたのは、統和年間(983-1012年)の西北鎮守でした。
西征の成功
妹の蕭太后から西北の守りを任された蕭胡輦は、自ら軍を率いてモンゴル高原へ西征。阻卜(ケレイト)、烏古(ウーグ)などの強大な部族を次々と征伐し、帰順させることに成功しました。
その功績は「領土を遠くまで拡大し、降伏・帰順した者も多かった」と記録されています。また、部将・蕭挞凛の進言を受けて、漠北に鎮・防・維の三州を設置。これにより西北辺境の管理体制を強化し、諸部族から「年貢の方物」を納めさせることができました。
対宋戦線での活躍
986年、北宋が北伐を開始した際にも、蕭胡輦は蕭太后と協力して防衛にあたり、見事に撃退しています。
かつて三万の兵を率いて北西を守備した蕭胡輦は、弓馬騎射に長けるだけでなく、兵法に通じ、武芸にも優れていました。その軍事的才能から、後世「遼代の花木蘭」と称賛されることになります。
姉妹の絆から対立へ
当初、蕭胡輦と妹の蕭太后の関係は良好でした。蕭太后は姉の軍事的才能を頼りに西北地方を任せ、国境の安定を図っていたのです。
権力の脅威
しかし、蕭胡輦が西北で長年勢力を拡大するにつれ、状況は変化していきます。一部の部族からは「西北の女帝」とまで称されるようになった蕭胡輦の存在は、蕭太后の中央集権にとって脅威となりました。
蕭胡輦は、遼太宗の孫であり、夫は亡くなったとはいえ穆宗の後継者とみなされていたわけですから。
蕭胡輦のほうが、太后であったかもしれないのです。
感情のもつれ
さらに姉妹関係を決定的に悪化させたのが、蕭胡輦と馬奴・挞览阿钵との恋愛関係でした。
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皇太妃と奴隷という身分差のあるこの関係を、蕭太后は「体裁を欠く」と見なし、馬奴を辱める者を手配。これが姉妹間の対立をさらに激化させることになります。
一部の資料によれば、挞览阿钵の蕭胡輦に対する感情は本心だった可能性があります。幼少期から両親に恵まれなかった彼は、蕭胡輦に母性的な感情と同時に女性としての魅力も感じていたとされます。長年の寡婦生活を送っていた蕭胡輦もまた、この関係から久しく忘れていた情熱を感じ取ったと言われています。
また一方で、挞览阿钵には野心があり、蕭胡輦に謀反を唆した結果、彼女の悲劇を招いたとの分析もあります。
挞览阿钵にとっては、蕭胡輦が軍事で支えていたのにも関わらず、評価されていないという腹立ちがあったでしょう。
蕭太后がこの関係を反対したのは、挞览阿钵の野心に警戒したためとも言われています。
悲劇的な最期
1005年に「澶淵の盟約」が締結されると、遼は宋から年貢を得ましたが、その年貢は皇帝に入り、
貴族大臣たちはその恩恵を受けられず不満を募らせました。
同時に蕭太后が貴族の権力制限を始めたことで、宮廷内の対立はさらに激化します。
蕭胡輦は蕭太后の政策に不満を抱き、阻卜(ケレイト)部族と手を組んで対抗しようとしたとされますが、その計画は蕭太后に見抜かれました。
1006年、蕭胡輦は「ケレイトに投降し兵を借りて謀反を企てた」と告発され、兵権を剥奪されます。
蕭太后は彼女を懐州に幽閉し、次姉の蕭夷懶も連座で囚われました。
そして翌1007年6月、蕭太后は後患を絶つため、獄中の蕭胡輦に賜死を命じたのです。
歴史の中の蕭胡輦
蕭胡輦の軍功は顕著でありながら、政治闘争に敗れたため、『遼史』における記述は驚くほど簡略です。
その歴史的貢献は長らく埋もれてきました。
彼女の悲劇は、父・蕭思温の政治的布石と遼朝の皇族・皇権の駆け引きの必然的帰結でした。
さらに蕭太后は政権基盤を固めるためなら、実の姉妹に対しても冷酷で容赦しなかったのです。
おわりに
なお、蕭胡輦と馬奴・挞览阿钵の恋愛に関する詳細な記述は、後世の野史やドラマ(『燕雲台』など)に多く由来しており、厳密な公式正史ではありません。
正史におけるこの件の記載は比較的簡略であり、その真実性には疑問が残ります。
また、挞览阿钵は蕭胡輦を貶めるために創作されて実在しなかったという人もいます。
挞览阿钵は、蕭胡輦を敬愛して支持していた若者たちを1人の人間としたという人もいます。
いずれにせよ、「遼代の花木蘭」と称された女性将軍が確かに存在し、辺境を守り、領土を拡大し、そして政治の渦に飲み込まれていった――その事実だけは、確かです。



