畠山重忠供養塔
今回、由比ヶ浜から若宮大路を北上した。新田義貞が鎌倉に攻め込んだルートを自分の足で歩いてみたかったからだ。
歩いていると、若宮大路沿いに畠山重忠公の供養塔があった。意外だった。供養塔というのは、山の中や寺の奥にひっそりあるものだという先入観があったからだ。しかしここは鎌倉の目抜き通りである。
北条氏にとっても、他の御家人にとっても、畠山重忠は「なかったことにできない人」だったのだと思う。だからこそ、これだけ人目につく場所に供養塔が建てられたのではないか。その「後ろめたさ」が、石の形になって残っているような気がした。
「功績を積めば守られる」という前提の崩壊
頼朝の時代、御家人の世界はシンプルだった。主君に忠義を尽くし、戦で功績をあげれば、所領と地位が守られる。ご恩と奉公の関係である。
畠山重忠はその模範だった。「坂東武士の鑑」と称された人格と武勇、頼朝からの厚い信頼。どこからどう見ても、粛清される理由がない。
それでも討たれた。
きっかけは些細なことだった。息子・重保と平賀朝雅の口論。そこに牧の方の讒言が加わり、証拠も薄いまま「謀反」の名目で元久2年(1205年)に父子ともに滅ぼされた。
御家人たちはこの事件を見て、何を思っただろうか。
「次は自分かもしれない」
忠義も武功も、北条の意向一つで無効になる。そのことを全員が悟った瞬間だったと思う。
心がばらばらになった御家人たち
重忠事件以降、御家人の行動原理は静かに、しかし確実に変わっていったと私は見ている。
「忠義」より「生き残り」へ。
表向きは北条に従う。しかし内心では、常に次の一手を考えている。そういう御家人が増えていった。
北条はそれを制度で補おうとした。貞永式目(1232年)で法的秩序を示し、評定衆による合議制で「皆が参加している政治」という形を作った。これは一定の効果があったと思う。御家人にとって幕府という行政システムは、自分の所領を守るために必要なものでもあったからだ。他に従うべき存在もなかった。
しかしそれは「納得」ではなく「消去法」だった。
「戦争ありきの経済システム」という構造的欠陥
鎌倉幕府の御家人を束ねていたのは、忠義だけではなかった。もっと現実的な経済的利益があった。
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戦で勝つ→土地をもらう。
これが御家人にとっての基本的な生活原理だった。しかしこの仕組みは、戦争が続くことを前提にしている。平和になった途端に、システムが機能しなくなる。配る土地がない。
さらに追い打ちをかけたのが相続の問題だった。鎌倉時代の相続は息子だけでなく、娘も含めた子供全員が土地を受け取ることができた。一見公平に見えるが、世代を重ねるごとに一人あたりの所領は細分化され、御家人は静かに貧乏になっていった。分けてもらえなかった者はどうなるか。所領を持たない武士、いわゆる「悪党」になるしかない。御家人層の底が、着実に抜けていった。
この反省から後の時代は「最も優れた子が継ぐ」という方向に向かったが、今度は相続争いが頻発した。江戸時代になっても母の力関係によって長男以外が継ぐことは珍しくなく、相続が法律によって完全に定まったのは明治になってからのことである。
そこに元寇が来た。
文永・弘安の役(1274年・1281年)で御家人たちは自腹で遠征し、命をかけて戦った。しかし相手は海の外から来た敵である。奪うべき土地がない。当然、恩賞もない。
「なぜ戦ったのか」という問いに、幕府は答えられなかった。
崩壊は必然だった
整理すると、1333年に向けて三つの崩壊が重なっていた。
精神的崩壊——重忠事件で「忠義を尽くしても守られない」という現実を見た。
経済的崩壊——土地の細分化と元寇の恩賞なしで、御家人の生活基盤が揺らいだ。
正統性の崩壊——後醍醐天皇という「別の旗」が現れ、128年分の不満に出口ができた。
足利尊氏の離反は謀反ではなく、この三つの崩壊が同時に爆発した結果だったと私は思う。鎌倉幕府が短期間であっけなく滅んだのも、軍事的敗北ではなく、もはや「戦う理由を持つ御家人がいなかった」からではないだろうか。
そしてその二年後、北条時行が鎌倉を奪還した(中先代の乱、1335年)。しかし「また北条か」という感情が御家人の間に広がり、足利尊氏が現れると人々は再び尊氏側に雪崩を打った。時行はわずか20日余りで鎌倉を失った。
これは軍事力の差ではない。もう一度北条の下に戻る気持ちになれなかった、ということだ。重忠事件から130年かけて積み上がった不信感が、時行の奪還をあっけなく無効にした。中先代の乱もまた、1205年に始まった長い長い伏線の終章だったと私は見ている。
若宮大路の畠山重忠供養塔は、その崩壊の起点に静かに立っている。

