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満洲国の闇|傀儡皇帝・溥儀はなぜ選ばれたか――神輿の論理

満洲国の闇――傀儡皇帝・溥儀はなぜ選ばれたのか
神輿は軽い方がいい――満洲国建国をめぐる陰謀の構造
はじめに――日本だけの権力構造

日本語に「神輿は軽い方がいい」という言葉がある。かつぎやすいし、何かあったら放り出して逃げられるからだ。そして担ぎ手は、誰だかわからない。

これは祭りの話ではない。日本における権力の在り方を描いた言葉である。さらに重要なのは、これが日本に独特の構造だということだ。

中国を見てみよう。西太后が「垂簾聴政」によって権力を握っていたとき、誰もが彼女がそこにいることを知っていた。簾はあくまでも礼儀上の形式であって、本当の権力者を隠すためのものではない。誰が実権を握っているかは、皆が承知していた。

韓国においても同様である。誰かが陰で糸を引いているとき、その人物が誰であるかは、おおむね知れ渡っていた。操作は行われていたが、操る者は本当の意味では隠れていなかった。

日本は違う。日本の場合、担ぎ手が本当にわからないのだ。形式的に隠れているのではなく、実際に誰なのかがわからない。「何を誰が決めたのか」という問いは、後世の歴史家がどれだけ資料を調べても答えの出ないことがある。曖昧さは制度の副産物ではない。曖昧さこそが制度そのものなのである。

これは西洋の権力モデルとも対照的だ。西洋では権力者は表に出る。責任の所在は明確であり、強いリーダーこそが理想とされる。失敗すれば、権力者自身が失脚する。

日本の場合、失敗すれば神輿が放り出される。担ぎ手は歩いて立ち去り――そして誰も、彼らが誰だったかを正確には言えない。

第二次世界大戦後、アメリカは当初、昭和天皇に戦争責任があると考えていた。東京裁判では多くの人が裁かれた。しかし裁かれた人々の多くは、「担ぎ上げられた側」にすぎなかった。本当の担ぎ手は、最後まで影の中にいた。

満洲国建国の陰謀もまた、この論理によって読み解ける。華やかな礼服と国家儀礼の裏側で、精緻で冷酷な操作の機械が動いていた。そしてその機械を動かした者たちは、おそらく永遠に完全には特定されないだろう。それは偶然ではなく、意図された結果だったと思う。

第一章 溥偉という「もうひとりの皇帝候補」

1931年の満洲事変後、関東軍が新国家の傀儡皇帝を選ぶにあたり、当初かなりの数の日本人が支持していたのは、清朝の恭親王・溥偉(プーウェイ)であった。

溥偉とは何者だったのか――恭親王と宗社党

溥偉を「もうひとりの候補」として語るとき、彼が「ただの優秀な皇族」ではなかったことを押さえておきたい。

溥偉は恭親王――かつて咸豊帝の弟として洋務運動を主導した恭親王・奕訢の家を継ぐ人物である。清朝の正統を象徴する家柄であり、本人も政治的野心を持っていた。

1912年、清帝退位が議論されたとき、これに最後まで反対したのが溥偉であった。彼は良弼・鉄良らとともに「君主立憲維持会」、いわゆる宗社党を組織し、革命派との徹底抗戦と清朝の存続を唱えた。退位後も復辟(清朝復興)の夢を捨てず、日本勢力に接近していく。

ここで見落としてはならないのが、同じ宗社党の中心に、もう一人、清朝復辟を志した皇族がいたという事実である。粛親王・善耆。川島芳子(愛新覚羅顯㺭)の実父であり、娘を日本人・川島浪速の養女に出した、あの人物だ。

つまり溥偉と善耆は、退位直後から「日本の力を借りて清朝を復活させる」という同じ流れの中にいた同志であった。そして二人を日本側でつないだ川島浪速は、長野県松本市の出身である。善耆から託された娘・芳子もまた、養父一家とともに松本へ移り住んでいる。

【さとえの見立て】

私がここで強く感じるのは、満洲国の傀儡皇帝候補をめぐる人脈が、宗社党という一本の糸でつながっているということである。溥偉も、善耆(粛親王)も、その娘・川島芳子も、そして松本の川島浪速も――関東軍が満洲国を構想するはるか以前、辛亥革命直後から「清朝復辟」という同じ夢の周辺に集まっていた人々だった。

満洲は、ある日とつぜん日本に「選ばれた」わけではない。退位の瞬間から二十年がかりで仕込まれた人脈の上に、満洲国は建てられたのだと思う。そう考えると、溥偉が候補に挙がったことも、けっして偶然ではない。彼は最初から、この長い因縁の中にいた一人だったのである。

(※川島芳子・粛親王家と松本のつながりについては、別稿で改めて掘り下げたい。)

溥偉は優秀な人物だった。政治的手腕があり、きちんとした妻を持ち、家中が団結していた。清朝の正統後継者として申し分ない。多くの日本人関係者が彼の擁立運動に協力していた。

ところが突然、関東軍は溥儀への「一本化」を決定する。

【さとえの見立て】

溥偉が選ばれなかった理由は、おそらく「優秀すぎた」からではないか。操りにくい人物は、傀儡には向かない。さらに「きちんとした妻がいて、妻たちが団結していた」という点が致命的だったと思う。後述するように、日本側には「日本人側室を入れ、後継者を日本の血筋にする」という計画があったと思われる。溥偉の妻たちの団結は、その計画が入り込む隙を完全に塞いでいた。

溥偉の末路――官職拒否、日当打ち切り、そして謎の死

満洲国建国後、溥偉はいかなる役職にも就かなかった。溥儀の命により、清朝の祖先陵墓の祭祀を行う役割を与えられたにすぎない。

ところが、その祭祀があまりにも完璧だった。清朝の正統な後継者としての威厳を申し分なく示す、非の打ちどころのない礼拝である。それを見た溥儀は、脅威を感じた。

溥儀は溥偉への官職授与を拒否し、日当まで打ち切った。かつて多くの日本人が擁立を支持した人物は、経済的にも立場的にも、じわじわと追い詰められていった。

1936年1月、溥偉は溥儀に謁見するため長春(新京)を訪れ、新華ホテル(新華旅社)に滞在していた。そこで56歳で突然亡くなる。晩年は「貧病交加」、すなわち貧しさと病の中にあったと伝えられる。

死因は謎に包まれている。墓も残さず、家財もすべて散逸した。

【さとえの見立て】

溥偉の死は、あまりにも「都合がよすぎる」タイミングだった。溥儀への謁見を求めて長春に来た、その矢先の急死。死因不明、墓なし、家財散逸――これは「自然死」の痕跡ではなく、「消された者」の痕跡に見える。直接手を汚さず、嫉妬や制度的排除で追い詰めておき、最後だけ密かに始末する。もしそうだとすれば、これもまた「神輿の論理」の一形態である。ただしこれはさとえの推測であり、史実として確認されているわけではない。

ただし、ここに付け加えておくべき後日談がある。溥偉の死後、清朝の親貴たちの諫言を受けて、溥儀は溥偉の家系が恭親王位を継ぐことを認めた。成人した息子たちは早世していたため、最年長の第七子・毓嶦(いくせん)が爵位を継ぎ、満洲国皇宮の私塾に学ぶことを許されている。

【さとえの見立て】

この後日談は、本文の「消された者の痕跡」という見立てに、慎重な留保を促す。もし溥儀が溥偉を完全に「敵」として葬り去りたかったのなら、その家系の襲爵を認める必要はなかったはずだ。襲爵の容認は、むしろ「死後はきちんと遇した」という体裁である。

だからこそ、溥偉の死は二通りに読める。一つは本文のとおり「都合のよすぎる急死」という見立て。もう一つは「貧病による自然死を、後世が陰謀の物語として読み込んでいる」という可能性。私はどちらとも断定できない。ただ、襲爵という事実を併記しておくことで、読者が両方の可能性を天秤にかけられるようにしておきたい。史実として確認できるのは「急死」までであり、その先は推測の領域だということを、改めて強調しておく。

溥儀が選ばれた本当の理由

一方、溥儀には傀儡として好都合な「弱点」が揃っていた。

まず、操りやすい性格。そして決定的だったのが、妻たちの状況である。

正妻の婉容(ワンロン)と側妃の文繡(ウェンシウ)は、まったく団結していなかった。むしろ二人は対立関係にあり、それぞれ異なる形で工作の余地を残していた。

婉容は虚栄心が強く、「皇后」という地位への執着が深い。優遇することで容易に手なずけられる。

文繡は政治的に聡明で、溥儀の日本傾倒を止めようとしていた。しかしそれゆえに、まず最初に排除しなければならない障害でもあった。

第二章 後継者工作――日本の血を皇位に
計画の骨格

関東軍が溥儀を選んだ背景には、単なる傀儡皇帝の設置以上の、長期計画があったと思われる。

目標は、溥儀の後継者を日本人の血筋にすること。

そのためには、まず妻たちを整理する必要があった。政治的に危険な文繡を追い出し、婉容は皇后として形式的に残しつつ、日本人側室を迎える環境を整える。側室との間に生まれた子が、将来の満洲国皇帝になる――これが計画の骨格だったと考えられる。

障害① 文繡の排除

文繡は聡明だった。溥儀が日本に取り込まれていくことを看破し、抵抗しようとした。

そこで取られた手段が「極端な冷遇」である。文繡を徹底的に冷遇し、屈辱を与え続けることで、忠誠心を砕き、自ら去るよう追い込む。

その冷遇は、数字で見ると残酷なほど明確だ。天津の住まいにおける月々の小遣いは、婉容が1,000元であったのに対し、文繡にはわずか180元。約6分の1である。

部屋の扱いはさらに露骨だった。婉容が2階の部屋を与えられていたのに対し、文繡に割り当てられたのは1階――しかも使用人たちの区画と同じ場所であった。

皇帝の側妃が、使用人と同じ区画に住まわされる。これはもはや「冷遇」ではなく、存在そのものの否定だ。婉容への1,000元という破格の優遇と組み合わせることで、二人の格差はいっそう残酷に際立つ。

【さとえの見立て】

この待遇の差は、偶然や溥儀の個人的な好みだけで説明できるものではないと思う。婉容を「皇后」として完璧に満足させながら、文繡を段階的に使用人以下の存在へと貶めていく――これは計算された工作の痕跡ではないか。

1931年、文繡はついに離婚を選んだ。中国の皇族の妻が皇帝に離婚を申し出るという、当時としては前代未聞の出来事であった。

しかし文繡は去り際に、予想外の爆弾を投下する。

計画の崩壊――文繡裁判と「秘密」の暴露

文繡は離婚交渉を裁判に持ち込んだ。そしてその裁判の中で、溥儀の性的不能が公になってしまう。

これは計画の根本的な崩壊を意味した。

日本人側室を迎えても、溥儀との間に子が生まれることはない。「後継者を日本の血筋に」という計画は、文繡の一撃によって根底から崩れ去ったのである。

【さとえの見立て】

文繡は「皇帝に離婚を要求した女性」として歴史に残っているが、その裁判における証言は、日本側の長期計画を根底から破壊する効果を持った。彼女が意図してそれを狙ったのか、あるいは結果としてそうなったのかはわからない。しかし、聡明な文繡のことだから、まったく無意識ではなかったかもしれない。

文繡のその後――勝利の代償

文繡は裁判で多額の賠償金を勝ち取った。しかしその後の人生は、過酷なものだった。

離婚という行為は、清朝の貴族社会から激しい反感を買った。皇帝に離婚を申し出るなど、前代未聞の「背信」と見なされたのである。文繡は清朝の人間関係から孤立した。

その孤立の中で、文繡は賠償金を散財する。宮廷にいた頃には許されなかった生活――自分だけの侍女を四人雇い、かつての貴族的な暮らしを取り戻そうとした。しかしその生活は長く続かなかった。

金が尽きると、文繡は路上でタバコを売って生計を立てた。清朝の側妃が、路上の物売りとして生きる。そして極貧のうちに世を去った。(詳しくは文繡の記事を参照されたい。)

【さとえの見立て】

離婚後の文繡への直接的な工作があったかどうかは、わからない。しかし、離婚という行為そのものが清朝貴族社会の反感を招き、文繡を孤立させたという構造は、注目に値する。日本側が手を下さなくても、清朝社会という「別の力」が文繡を追い詰めたのである。賠償金を散財して侍女を雇ったことも、宮廷での暮らしを奪われた者が、失った尊厳を取り戻そうとした哀しい試みに見える。文繡は最後まで、自分が本来いるべき場所を探し続けていたのではないだろうか。

障害② 婉容の「管理」――優遇から廃人化へ

文繡が排除される一方、婉容への工作は別の形で進んでいた。

まず「宮殿」の実態から見ておく必要がある。満洲国の皇宮として使われた長春(新京)の建物は、もともと吉林・黒竜江塩運局の事務所だった。二階建ての灰色のレンガと木造の建物で、関東軍が管理していた。「皇宮」という名にふさわしい威容とはほど遠い、官僚的な事務建築である。その建物の西側に溥儀が、東側に婉容が住まわされ、両者がなるたけ一緒にならないよう、空間そのものによって引き離されていた。

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婉容のまわりには、まだわずかに中国人使用人が残されていた。しかしその実態は、日本人による厳しい監視のもとに置かれていた。「皇后の侍女」という形をとりながら、実質的には監視体制の中に婉容を封じ込める構造である。

満洲国に移ってから、婉容のまわりにいた中国人使用人たちは次第に遠ざけられ、日本人使用人に置き換えられていった。信頼できる同国人を排除し、日本人だけで囲い込む。これにより婉容は、外部の中国人社会との繋がりを完全に断たれた。

そして阿片である。

婉容にはもともと精神疾患があり、阿片はその症状を抑えるための薬として使われていた面もあった。しかし満洲国の日本人使用人たちは、婉容が望む量を超えて欲しがるようになっても、止めるどころか、望むまま吸いたいだけ与え続けた。

「皇后」として最大限に優遇する――その約束は守られた。ただし、その「優遇」の中身が、いつの間にか変質していた。阿片を制限なく与えることは、婉容を満足させると同時に、彼女を完全な依存症へと追い込んでいったのである。

宮内府の記録によれば、1938年から1939年のわずか1年間だけで、婉容は740両もの阿片を購入し、1日あたり約2両を消費していたという。これは重度の依存症の数字である。

しかし婉容は、最初からただ廃人になっていったわけではない。中国側の資料によれば、当初はまだ正気を保っており、軟禁同然の状況の中で、中華民国政府に支援を求めようとしたり、溥儀が日本を訪問している間隙をついて脱出を計画しようとしたりしていたらしい。

だが脱出は叶わなかった。溥儀との接触は断たれ、中国人との繋がりも遮断され、監視の目は常に光っていた。逃げ場のない孤立の中で精神状態はどんどん悪化し、悪化するほどさらに阿片を求めた。阿片が正気を蝕み、正気を失うほどに阿片へ依存する――その悪循環の中に、婉容は囚われていった。

【さとえの見立て】

婉容への工作は二段階だったと思う。天津時代は「皇后として満足させて懐柔する」段階。満洲国移転後は「中国人を遠ざけ、空間で引き離し、阿片で無力化する」段階への移行だ。宮殿の東西分離という物理的な構造そのものが、溥儀と婉容の接触を制度的に断ち切っていた。文繡という政治的障害が排除されたのち、婉容は「利用する存在」から「管理・封じ込める存在」へと、位置づけが変わったのではないか。婉容自身は、そのことに気づいていたのだろうか。

第三章 標的変更――溥傑と嵯峨浩
溥儀から溥傑へ

計画は修正された。

溥儀の弟・溥傑(プーチェ)に、標的が変更されたのである。

溥傑にはすでに最初の妻がいた。

溥傑の最初の妻 唐石霞

彼女の名は唐怡瑩、号は石霞(唐石霞、1904年―1993年)。他他拉氏(タタラし)の出身で、なんと光緒帝の珍妃・瑾妃の姪にあたる。父は二人の妃の兄弟・志錡である。

ここで前回の文繡記事を読まれた方は、はっとされるかもしれない。文繡を退け婉容を皇后に押し込んだ端康太妃――その正体は瑾妃である。つまり、溥儀の側で皇后選びを主導した端康太妃(瑾妃)は、自分の姪・唐石霞を、溥儀の弟・溥傑の妻として送り込んでいたのだ。皇帝の妃選びも、その弟の妻選びも、同じ太妃の手のひらの上にあった。

唐石霞と溥傑の結婚は1924年、溥傑17歳・石霞20歳のときであった。だが二人の仲は早くから冷え、石霞は張学良の愛人となり、のちには盧永祥の子・盧筱嘉とも関係を持ち、醇親王府の財物を持ち出したとも伝えられる。この結婚は、日本の工作以前に、すでに内側から壊れていた。

その上で、彼女自身の口述(晩年の回想録)によれば――日本側は溥傑に日本人妻を迎えさせるため、石霞との離婚を迫り、応じなければ彼女を殺すという陰謀さえあったという。溥傑は復辟に夢中でありながらも情は残っており、その危険を密かに石霞に告げたとされる。石霞は「寧ろ華夏の孤魂となるとも、偽帝の貴戚とはならじ」と言い放ち、満洲国の傀儡工作に公然と背を向けた。

離婚後の彼女は、画家として一家をなした。北宗の工筆山水を能くし、1949年に台湾へ、のち香港に移って香港大学で教鞭をとり、1993年まで生きた。

 

そして1937年、溥傑は日本人女性・嵯峨浩(さが ひろ)と結婚した。

嵯峨浩という選択の精密さ

嵯峨浩は華族・嵯峨家の令嬢であり、単なる「日本人女性」ではない。明治天皇の縁戚にあたる家柄の女性を溥傑に娶わせれば、生まれた子は清朝の血と日本皇室の縁戚の血の両方を引くことになる。

嵯峨浩(1914年―1987年)の生家・嵯峨家は侯爵家で、藤原北家閑院流三条家の流れを汲む公卿の名門(正親町三条家の改称)である。その家系をたどると、明治天皇・大正天皇の生母につながる血脈があるとされている。

縁組の進め方も象徴的だ。1936年8月、溥傑は元関東軍司令官・本庄繁の邸宅で十数枚の見合い写真を見せられ、その中から浩を選んだ。媒酌人は本庄繁、結婚式は1937年4月3日、東京の軍人会館(現・九段会館)で挙げられ、号外が出るほどの騒ぎとなった。皇族同士の私的な縁談ではなく、関東軍の中枢が舞台を用意した「国策の結婚」だったことが、関係者の顔ぶれから透けて見える。

そしてこの結婚は、1937年に制定された満洲国の帝位継承法と連動していた。同法は日本の皇室典範を参考に作られ、「帝に子孫が皆あらざるときは帝の兄弟及びその子孫に伝う」という条項を含んでいた。子のない溥儀のあとは、溥傑と浩のあいだに生まれる男子へ――という道を、法が用意したのである。

そして、ここに見過ごせない一事がある。浩自身は、溥傑にすでに最初の妻(唐石霞)がいたことを、結婚に際して知らされていなかった。それを後になって知った浩は、深く傷ついたと伝えられる。

【さとえの見立て】

浩が前妻の存在を知らされていなかった、という事実は、この「国策結婚」の本質を鋭く照らし出している。日本側の担ぎ手たちは、駒として動かす溥傑の経歴すら、嫁ぐ当の浩には伏せていた。浩もまた、計画の全体像を知らされぬまま盤上に置かれた一個の駒だったのである。傷ついたのは、自分が「事情を知らされない側」に立たされていたと気づいた瞬間でもあっただろう。

冷酷なのは、この計画が誰も――文繡も、唐石霞も、そして日本人である浩でさえも――対等な当事者として扱わなかったという点である。神輿の論理は、担がれる者だけでなく、担ぎ手が用意した道具のすべてに及んでいた。浩が後年「流転の王妃」と呼ばれる数奇な人生を生きることになる、その出発点に、すでに「知らされていなかった」という一点の翳りがあったことを、私は心に留めておきたい。

それでも――と付け加えておかねば、公平を欠く。政略から始まったこの結婚は、のちに溥傑と浩のあいだに真実の情愛を育てた。出発点の欺きが、二人の関係のすべてを決めたわけではなかった。歴史の皮肉は、ここでも一筋縄ではいかない。

浩の「意地」――日本側の口述から

ここから先は、あくまでも日本側に伝わる口述(伝聞)であることをお断りしておく。

それによれば、浩は大変にプライドの高い女性であった。溥傑に前妻がいた事実を知ってからは、その矜持はかえって硬く張り詰め、満洲国の日本人婦人会では、いっそう高飛車な態度を見せるようになったという。溥傑が浩にことのほか優しく接したのは、その傷ついた誇りを慮ってのことだった、とも語り伝えられている。

そして後年、浩が戦後の苦難を越えてなお中国へ渡る道を選んだ背景にも、この誇りがあったとされる。なぜなら浩は、日本の皇室から直接励まされ、日満親善のため――将来の満洲国皇帝につながる溥傑のもとへ嫁ぐようにと、望まれて海を渡った女性だったからである。一度引き受けた使命を、敗戦と流転のあとも投げ出さない。それは彼女の意地であった、という。

【さとえの見立て】

文繡の排除、唐石霞との離婚、そして嵯峨浩との結婚と帝位継承法。本文が指摘するとおり、これは一連の「修正・継続」として読める。ただ、史実を並べたうえで私が付け加えたいのは、この精密な計画が結局は実を結ばなかったという皮肉である。

溥傑と浩のあいだに生まれたのは、1938年の慧生、1940年の嫮生――二人とも女児であった。「日本の血を引く満洲国皇帝」を生むという計画は、文繡の裁判で溥儀の不能が露見して一度崩れ、溥傑へと標的を移したのちも、今度は男子が生まれないという形で、ついに最後まで完成しなかった。

担ぎ手たちは神輿をすげ替え、法まで整え、血筋まで設計した。それでも、生まれてくる子の性別だけは操作できなかった。冷酷で精緻な「神輿の論理」が、最後は生身の偶然に裏切られた――私はここに、人為の傲慢に対する、ささやかな歴史の意趣返しを見る思いがする。

欺かれていたのは皇室もだった――『食在宮廷』という証人

この一連の工作を振り返るとき、私が最も「怖い」と感じるのは、計画の中枢にいた担ぎ手たちが冷酷だったこと以上に、その外側にいた人々が善意だったことである。

日本の皇室は、おそらく本気で日満の友好を願っていた。溥傑の結婚歴を貞明皇太后(昭和天皇の母)がご存じだったとは、私には思えない。皇室は、この縁組を「二つの国を結ぶ慶事」として、純粋に祝福していたのではないか。

その善意は、溥儀の訪日への歓待によく表れている。1935年、満洲国皇帝として初来日した溥儀を、昭和天皇は自ら東京駅のホームまで出迎えた。天皇が国家元首を駅頭で親しく出迎えたのは、日本の歴史の中でこの一度きりだという。国を挙げての大歓迎に、溥儀は深く感激した。彼の生涯で、もっとも有頂天だった日々であったと評される。

嵯峨浩への言いつけも、同じ善意の延長にあった。貞明皇太后は浩に、嫁ぎ先である清朝宮廷のことをしっかり学ぶように、そして清朝の宮廷料理について研究するように、と命じられたと伝えられる。新しい国へ嫁ぐ娘が、その家の文化に深く通じることを願う――それは政略でも陰謀でもない、まっすぐな心づかいである。

そしてその言いつけは、一冊の本となって今に残っている。嵯峨浩の著した『食在宮廷――中国の宮廷料理』である。流転の生涯を経てなお、浩は清朝宮廷の食の記憶を書き留め、世に伝えた。皇太后の善意の言葉が、半世紀を超えて、一冊の料理書に結晶しているのである。

【さとえの見立て】

ここにこそ、この陰謀のいちばん怖いところがあると思う。

神輿を担いだ者たちは、皇室の善意さえも一つの装置として使った。皇室が本気で日満友好を信じ、本気で溥儀を歓待し、本気で浩に「嫁ぎ先の文化を学べ」と命じたからこそ、その下で進む冷たい計画――前妻の存在を伏せ、不能を抱えた兄に代えて弟に日本人妻をあてがい、生まれる男子に帝位を継がせる――は、いっそう見えにくくなった。善意は、最良の偽装である。誰も嘘をついていないように見える舞台の上で、最も大きな嘘が進行していたのだ。

『食在宮廷』という料理本は、だから二重の意味で証人である。一つは、嵯峨浩という女性が流転の果てに守り抜いた文化の記録として。もう一つは、皇室が抱いた善意が本物だったことの、物言わぬ証拠として。あの料理書のページをめくるとき、私たちはそこに、欺かれていることを知らぬまま心を尽くした人々の体温を読むことができる。

戦後、東京裁判で裁かれたのは「担ぎ上げられた側」であった。担ぎ手は影に隠れた。そして、善意のまま利用された人々――溥儀も、浩も、おそらくは皇室さえも――は、誰も「自分が欺かれていた」とは気づかぬまま、歴史の表舞台に立たされていた。神輿の論理のいちばんの恐ろしさは、悪意ではなく、利用された善意の側にこそ滲んでいるのかもしれない。

【さとえの見立て】

文繡の排除から溥傑・嵯峨浩の結婚まで、一連の流れを見ると、偶然の連続ではなく、一つの意志に基づく計画の修正・継続として読めると思う。ただし「誰が」その計画を立案・実行したのかは、いまも明確ではない。関東軍なのか、より上位の意志決定者がいたのか。担ぎ手は、最後まで影の中にいる。

(なお、満洲国の崩壊後、流転する浩を救った名もなき婦人たちと、元陸軍大尉・田中徹雄の物語については、別稿「名もなき人々と、名のある一人――嵯峨浩を救った日本人たち」に改めて記した。あわせてお読みいただきたい。)

結びにかえて――血は、玉座にではなく、日本に続いた

最後に、静かな後日談を書き添えておきたい。

関東軍が「日本の血を引く満洲国皇帝」を生もうと、文繡を退け、唐石霞を退け、嵯峨浩を溥傑に嫁がせ、帝位継承法まで整えて設計した血筋――その血は、結局どの玉座にもたどり着かなかった。

浩と溥傑のあいだに生まれた長女・慧生は、1957年、天城山で若くして世を去った。次女・嫮生は日本にとどまり、母の実家と縁の深い家へ嫁ぎ、五人の子を育てた。浩と溥傑の孫たちである。その家族は今も日本で、市井の人として静かに暮らし、血脈は途切れることなく続いている。

(本稿は「さとえの見立て」を含みます。史実との区別にご注意のうえお読みください。)

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