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下関 料亭春帆楼 日清講和記念館で出会った李鴻章の書に感慨に耽じた

なぜ下関で講和条約が結ばれたのか

下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示できる最適な場所であったからだそうです。日本の近代軍船が狭い海峡を通過する光景を見せて、清国使節団に脅威を与える狙いがあったそうです。

料亭春帆楼の日清講和記念館

安徳天皇陵近接したところにあります。当時の料亭は壊されて建て替えられています。入場料無料です。

李鴻章道路(李鴻章が宿泊場所から会議場まで歩いた道)があります。当時何を思ってこの道を歩いたのでしょうかなどと考えながら私たちも歩くことができます。

政治家としての李鴻章

太平天国の乱を鎮圧。清朝末期の政治家。

アヘン戦争に敗れ、清国の後進性を痛感して洋務運動で清朝の近代化を図る。しかし日清戦争で敗北。下関条約を結び責任をとって辞任。

義和団の乱の後講和条約交渉をして締結後死去。

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難しい時代に大変な責務をこなし、火中の栗を拾わされ、挙句に中国側から批判されて気の毒な人だと思います。敗戦処理は誰もしたくないのに、他にできる人がいなかったので、命を投げ打って使命を全うしたのだから評価されるべきなのではと思います。

李鴻章の書

李鴻章は政治家としてだけでなく、書道にも熱心に取り組み、多くの書を残しているそうです。現在、その書は中国国内外の博物館や美術館に所蔵されているそうです。李鴻章の堅実で端正な書風は、当時の清朝の官僚の書風を代表するものとされています。私も李鴻章の書を見つけ、感慨に耽りました。

李鴻章と肅親王家

肅親王憲章(辛亥革命後なので皇帝溥儀から認められた)の長男連組さんと李鴻章の孫娘が結婚しています。最も連組さんは満州国陸軍大臣だったため、満州国崩壊後は妻子を守るため離縁し一人でひっそりと暮らしていましたが、捕まって、獄死したそうです。お子さんは、中国だと肅親王家は悪者なので、語らずひっそりと暮らしているそうです。

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