繁栄を極めたウイグルの都
可敦城は、かつてウイグルの王都として栄えた都市でした。
ウイグルは東突厥から独立する際に唐軍の支援を受けたことから、唐との関係は良好でした。他の遊牧民族とは一線を画し、中国の農地を略奪するようなことはせず、目先の利益よりも長期的な貿易関係を重視したのです。
繁栄の源泉
ウイグルの繁栄は、巧みな交易戦略にありました。
唐の絹と自国の馬を交換し、それをシルクロードを通じて東ローマ帝国に売りさばくことで、莫大な利益を上げていたのです。この富の蓄積により、ウイグルは遊牧民としては異例の選択をします。通常、遊牧民は財産と共に移動するものですが、ウイグルは富の集積所として都市と王宮を可敦城に建設しました。
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繁栄がもたらした悲劇
しかし、この富の集積は周辺部族の妬みを招くことになります。
固定された都市に富が集中していることは、略奪の格好の標的となりました。840年、ついにキルギスによって可敦城は焼き払われ、ウイグルの人々は南や西へと逃れていきました。
遼時代の再建
時代は下って994年、遼聖宗と蕭燕燕は蕭胡輦に対し、契丹の北方部族を統制するよう命じました。
1003年、蕭胡輦はかつてのウイグル王都の近くに、新たな可敦城を築きます。この新しい可敦城には、2万人以上の騎兵とその家族全員、そして700人以上の中国からの家族が居住していました。
可敦城の歴史は、遊牧民が定住と交易によって繁栄を築いた稀有な例であると同時に、その富が招いた悲劇、そして異民族による再建という、興亡の物語を今に伝えています。