地図で読む蕭燕燕の大胆さ
1004年、遼は南下して北宋に攻め込みました。
定州と瀛洲(今のツァンチョウ)の守りは硬く、 攻め落とせなかったため諦め、騎馬軍団はそのまま宋の深部に入り込み黄河まで来ました。
敵地深くまで入り込むので、挟み撃ちの可能性もあるので、兵法上はNGすが、騎馬軍団は機動性に富むので先に首都開封に脅威を与える戦法を取ったのでしょう。素人目にも蕭燕燕の考えは大胆です。
首都開封までわずかに迫った澶州で、両者は激突し、そこで和睦をすることにしました。
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澶淵の盟でどうなった
遼は領土を諦める代わりに、毎年巨額の歳費を北宋から受け取ることになりました。 境界定まったので両者とも平和に国内問題に注意を傾けることができました。
また、遼は金銭的に豊かになり繁栄しました。
しかしラクしてお金が入るようになって、遼の指導層は堕落していきました。
蕭燕燕は遼を豊かな大国にしたいと願い、実行してきましたが、それは逆に遼が滅ぶ原因となっていきました。