敵地深く突き進んだ騎馬軍団
1004年、遼は大軍を率いて南下し、北宋への侵攻を開始しました。この軍事行動を主導したのが、遼の実質的な最高権力者である蕭燕燕(しょうえんえん)でした。
遼軍はまず定州と瀛洲(現在の河北省滄州)を攻撃しましたが、両都市の守りは予想以上に堅固で、なかなか陥落させることができませんでした。ここで蕭燕燕は大胆な決断を下します。これらの要塞都市を包囲したまま放置し、主力の騎馬軍団をそのまま宋の深部へと進軍させたのです。
地図を見れば、この作戦の大胆さがよくわかります。定州と瀛洲という敵の拠点を背後に残したまま、遼軍は黄河にまで到達しました。兵法の常識からすれば、後方の敵拠点から挟み撃ちにされる危険性があり、通常は避けるべき戦法です。
機動力を活かした奇策
しかし、蕭燕燕はこの危険を承知の上で、あえてこの戦略を選びました。騎馬軍団の最大の強みである機動性を最大限に活用し、敵の首都・開封に直接的な脅威を与えることで、宋朝廷を動揺させ、有利な条件で和平を結ぼうと考えたのでしょう。
素人目にも、この作戦は非常に大胆です。一歩間違えれば全軍が孤立し、壊滅する可能性もありました。しかし蕭燕燕は、騎馬軍団の速度と機動力があれば、危険が迫れば素早く撤退できると計算していたのかもしれません。
遼軍は開封のすぐ近くにある澶州(せんしゅう)まで進軍し、ついに北宋軍と激突しました。首都がすぐそこまで脅かされた宋朝廷は動揺し、両者は戦闘の末、和平交渉のテーブルにつくことになりました。
澶淵の盟――金で買った平和
こうして結ばれたのが、歴史上有名な「澶淵の盟」です。
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この和約により、遼は領土的な拡大を諦める代わりに、北宋から毎年巨額の「歳幣」を受け取ることになりました。具体的には銀10万両、絹20万匹という莫大な金銭が、毎年遼に支払われることになったのです。
この条約は両国にとって大きな意味を持ちました。明確な境界線が定められたことで、両国とも国境紛争に悩まされることなく、国内の統治や発展に注力できるようになりました。長年の戦争状態が終わり、平和が訪れたのです。
繁栄と堕落――豊かさがもたらした皮肉な結末
遼にとって、澶淵の盟は金銭的に非常に有利なものでした。毎年確実に入ってくる莫大な収入により、遼は急速に繁栄しました。文化は花開き、経済は発展し、まさに蕭燕燕が夢見た「豊かな大国」が実現したかに見えました。
しかし、ここに歴史の皮肉がありました。
苦労せずに大金が入ってくるようになったことで、遼の指導層は次第に堕落していきました。軍事的な緊張感が失われ、戦う必要がなくなった結果、かつての強靭さや勤勉さが薄れていったのです。豊かさは安逸を生み、安逸は国力の衰退を招きました。
蕭燕燕は遼を豊かな大国にしたいと願い、そのために戦い、そして澶淵の盟を結びました。その願いは確かに実現しました。しかし皮肉なことに、その豊かさこそが、後の遼の衰退と滅亡の遠因となっていったのです。
歴史を振り返ると、蕭燕燕の大胆な軍事作戦は成功し、彼女の外交戦略も見事に実を結びました。しかし、長期的に見れば、その成功が次の世代に予期せぬ問題をもたらすことになりました。地図上で見る蕭燕燕の大胆な進軍路は、その成功が逆説的に遼の滅亡につながったという歴史の皮肉を示しています。