> ※この記事は、私の遼(契丹)シリーズの制度編です。「[韓延徽(胡漢分治)]」で見た「二つの物差し(因俗而治)」を、こんどは地図の上に広げてみます。
遼は五つの都を持ち、それぞれ違う民族が暮らしていました。
五京制度とは、いわば因俗而治の、空間バージョン。多民族をどう束ねたか——遼の統治の知恵が、ここに地形として現れています。
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はじめに——五つの都を持つ帝国
遼は、複数の民族を統合した多民族国家でした。その統治の妙は、各地域の民族的な特性を理解し、婚姻・人事・征服を巧みに組み合わせて帝国の基盤を固めた点にあります。
今回は、その象徴である五京制度から、多民族帝国の成り立ちを見ていきましょう。
五京と、その民族
遼は五つの京城(みやこ)を持ち、それぞれ中心となる民族が異なりました。
– 上京 臨潢府——主に契丹人。遼を建てた中核民族で、帝国の支配層。
– 東京 遼陽府(現在の遼陽)——渤海人。農耕を中心とする定住文化。
– 南京 析津府(現在の北京)——漢人。農耕の定住民が多く暮らす、燕雲十六州の中心。
– 中京 大定府——かつての奚(けい)族の地。
– 西京 大同府(現在の大同)——旧来、沙陀(さだ。チュルク系)など雑多な胡漢が混じる西方の要地。
> 五京は、一度に造られたのではない この五つは、はじめから揃っていたわけではありません。
まず上京・東京・南京があり、中京は1007年(聖宗の世)に、奚王の牙帳(がちょう=本拠)の地に建てられました。
さらに西京は1044年(興宗の世)に置かれ、ここでようやく「五京」が完成します。つまり五京制度は、約一世紀をかけて段階的に整えられた、帝国の拡大そのものの記録でもあるのです。
統治の基盤①——婚姻:耶律と蕭の「二つの氏族」
契丹皇帝の統治を支えた、いちばんの土台が婚姻でした。
遼では、皇族の耶律氏(やりつし)は、后族の蕭氏(しょうし)とだけ結婚するという、固定された通婚制度がありました。
皇帝は代々、蕭氏から皇后を迎える。蕭燕燕(→「[劉娥と蕭燕燕]」)も、その姉の[蕭胡輦]も[蕭夷懶]も、みなこの契丹の后族・蕭氏の娘です。
耶律(皇族)と蕭(后族)という二つの氏族が、交互に結び合う——これが、遼の権力の背骨でした。
> よくある誤解を、一つ正しておきます 「蕭氏=奚族」「蕭燕燕は奚の出」という説明を見かけますが、これは不正確です。后族の蕭氏は、契丹の氏族(乙室已・拔里の系統)であって、奚族ではありません。
奚は、中京の地にいた被支配の一民族。中京が奚王の牙帳跡に築かれたことから混同されがちですが、皇后を出す蕭氏とは別です。
ちなみに、この「蕭」という姓の由来ですが、建国者・[耶律阿保機]は、漢の高祖・劉邦を深く慕い、皇族の耶律氏に漢姓「劉」をあて、皇后の一族を劉邦の名宰相・蕭何(しょうか)になぞらえて、「蕭」の姓を与えた——と『遼史』は伝えます。
草原の后族の姓に、漢帝国の名宰相の名が宿っている。遼の漢化志向が、氏族の名前にまで滲んでいたのです。
統治の基盤②——人事と征服:五京を、どう手中にしたか
婚姻が縦の背骨なら、各地域の掌握は横の広がりでした。ドラマ『燕雲台』の権力闘争も、この「地域を押さえる」視点で読むと、政治的な意味が見えてきます。
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西方(沙陀の地)。 [耶律罨撒葛]は、沙陀と縁の深い有力者でした。彼が宮廷を追われて沙陀へ逃れ、やがて系統が退けられたことは、結果として、皇帝が西方を直接の統治下に置くことを意味しました。(※ただし、正式な「西京」の設置は1044年と後のこと。罨撒葛〔972年没〕の沙陀との縁は、景宗即位の際に沙陀へ逃げた史実によるもので、制度としての西京とは時期がずれます。ここはドラマ的な地域掌握の読みとして。)
南方(漢の地)。 謀反を重ねた[耶律喜隠](宋王)が退けられ、代わって漢人系の[韓徳譲]が重用されたことは、漢人の多い南京周辺の統治を安定させました。漢地は、漢人の名宰相に治めさせる——まさに因俗而治です。
東方(渤海の地)。 [耶律阿保機]は926年に渤海を攻め滅ぼし、その地に東丹国を置きました。渤海の女性が後宮に入ったとも伝わり、これは被征服民を帝国の一員として取り込む、象徴的な行いでした。
私の見立て——遼は、すべてが「二つ組」でできていた
五京制度を眺めていて、私が惹かれるのは、遼という国が、何もかも「二つのものを、一つに束ねる」形でできていることです。
統治は、北面官と南面官の二本立て(→「[韓延徽(胡漢分治)]」)。
皇室は、耶律と蕭の二氏族の通婚。
そして領土は、草原の遊牧世界と、農耕の定住世界の二つを、五つの京で束ねる。
遼は、異なる二つを無理に一つに溶かすのではなく、二つのまま、巧みに組み合わせて回す国だった。
五京制度は、その思想が地図の上に現れたものです。一つの物差しを押しつけず、その土地その民に合った物差しで治める——韓延徽の「因俗而治」が、帝国全体の空間設計にまで貫かれていたのです。
そして、この「耶律=蕭の二氏族しか結婚できない」という鉄の掟を思うと、漢人の[韓徳譲]が耶律姓を賜り皇族に列したことの異常さが、改めて際立ちます。
二つの氏族で固く閉じていた円の中へ、漢人がただ一人、招き入れられたわけですから。
おわりに
婚姻による同盟、地域ごとの人事、軍事的征服、被征服民の取り込み——これらが組み合わさって、強大な多民族帝国が築かれました。
五つの京に異なる民族が暮らし、それぞれの文化を保ちながらも、契丹を中心とした体制の下に束ねられていく。
多様性と統一の共存こそ、遼の特徴であり、強さの源でした。
そしてその知恵は、のちの金・元・清といった征服王朝にも、形を変えて受け継がれていくのです(→「[補論:清朝はなぜ滅んだのか]」)。
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