はじめに
遼帝国は、複数の民族を統合した多民族国家でした。その統治の秘訣は、各地域の民族的特性を理解し、戦略的な婚姻関係や人事によって帝国の基盤を固めていったことにあります。今回は、遼の五京制度を通じて、どのように多民族帝国が形成されていったのかを見ていきましょう。
五京制度と民族分布
遼帝国は五つの京城を持ち、それぞれ異なる民族が中心となって暮らしていました。
上京では主に契丹人が居住していました。契丹人は遼を建国した中核民族であり、帝国の支配層を形成していました。
中京は主に奚族が住む地域でした。奚族は后族、つまり皇后を輩出する部族として重要な位置を占めており、契丹人の支配を支える存在でした。
西京(現在の大同)には主に沙陀族が暮らしていました。沙陀族はチュルク系の民族で、西方地域における重要な勢力でした。
南京(現在の北京)には漢人が多く居住し、農耕を主とする定住民が生活していました。
東京(現在の遼陽)には渤海人が住んでおり、こちらも農耕を中心とした定住文化が根付いていました。
政略結婚による統治基盤の確立
契丹人の皇帝にとって、奚族との結びつきは帝国統治の要でした。契丹人である耶律明扆(えいりつめいたい)は、蕭燕燕(しょうえんえん)を皇后に迎えることで、奚族との強固な同盟関係を築きました。
実は、耶律明扆に限らず、代々の契丹人皇帝や有力な支配階級の人々は、奚族出身の蕭氏と結婚することが不可欠でした。これは単なる慣習ではなく、帝国の安定のための戦略的選択だったのです。
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西京の掌握:罨撒葛の排除
罨撒葛(あつさつかつ)は西京に地盤を持ち、沙陀族と深い結びつきがある有力者でした。ドラマでは、罨撒葛が宮廷で陰謀を企てたため、皇帝が彼を排除したという筋書きで描かれています。
しかし、これを政治的に読み解くと、皇帝の勢力が西京を手中に収めたことを意味します。罨撒葛を排除することで、沙陀族が支配的だった西方地域を皇帝の直接統治下に置くことに成功したのです。
南部の統治:韓德讓の登用
当初、南方面の大臣(軍事的な要職)であった耶律喜隠を失脚させ、代わりに韓德讓(かんとくじょう)を重用することで、皇帝は南部地域を掌握しました。韓德讓は漢人系の有力者であり、彼を寵臣として取り立てることで、漢人が多く住む南京周辺の統治を安定させたのです。
東部の征服:渤海の併合
東部では渤海を攻め滅ぼし、その支配領域を拡大しました。征服の証として、渤海の娘が後宮に入っています。これは単なる戦利品ではなく、渤海人を帝国の一員として取り込むための象徴的な行為でした。
結び:多民族帝国の完成
こうして見ていくと、遼帝国がいかに巧みに多民族を統合していったかがわかります。婚姻関係による同盟、戦略的な人事、軍事的征服、そして被征服民の取り込み。これらすべてが組み合わさって、強大な多民族帝国が築かれたのです。
五京それぞれに異なる民族が暮らし、それぞれの文化や生活様式を保ちながらも、契丹人を中心とした統治体制の下で統合されていく。この多様性と統一性の共存こそが、遼帝国の特徴であり、その強さの源泉だったと言えるでしょう。