遼史に記された人物たちの運命を追うと、華やかな宮廷の裏に隠された血なまぐさい権力闘争が浮かび上がってきます。今回は、耶律罨撒葛と蕭胡輦の生涯を通して、遼朝の政治的現実を考察してみたいと思います。
耶律罨撒葛の運命
萧胡辇と結婚した耶律罨撒葛は、穆宗の死後、沙陀への亡命を余儀なくされました。後に耶律賢によって朝廷に呼び戻されましたが、972年に病死。耶律賢は彼を「皇太叔」と追号し、萧胡辇は「皇太妃」の地位を得ました。
史書に隠された真実
遼史の記述は簡潔ですが、その行間には多くの謎が隠されています。耶律賢が即位した際、なぜ耶律罨撒葛は沙陀に亡命せざるを得なかったのでしょうか。歴史書には明記されていませんが、耶律賢と耶律罨撒葛の間に武力闘争があったと考えるのが自然です。
遼史は勝者である耶律賢サイドの視点で書かれているため、都合の悪い事実は省略されている可能性が高いのです。
ドラマの描写と史実の考察
ドラマでは、穆宗暗殺を画策した耶律賢が黒山に駆けつけて即位を宣言し、太平王・耶律罨撒葛が巻き返しを図るも時すでに遅く、韓徳譲に捕えられそうになって沙陀へ逃亡する場面が描かれています。
その後、罨撒葛は耶律賢に呼び戻され、今度は耶律喜隠の勢力を抑えるための駒として利用されることになります。972年の「病死」という記録も、果たして真実なのでしょうか。耶律賢にとって、自分の子供に帝位を継がせるためには、耶律喜隠と耶律罨撒葛の系統は邪魔な存在でしかありませんでした。
蕭胡輦の波乱の人生
北方への「栄転」という名の左遷
耶律賢の息子である幼い聖宗が即位すると、蕭燕燕は蕭胡輦を西北の監督に任命しました。ドラマでは姉妹の仲睦まじい関係が描かれていますが、実際は蕭燕燕が力のある蕭胡輦を上京から遠ざけたかったのではないでしょうか。
997年、蕭胡輦はケレイトなど強大な部族に打撃を与え、北部すべての部族を降伏させました。遼史によれば、「領土は遠く拡大し、降伏者も多く」、これ以降「各部族が年ごとに貢物を供給」するようになったといいます。
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撻覧阿鉢との恋
西北を鎮守している間、蕭胡輦は「美しい容姿を持つ」奴隷の撻覧阿鉢と私通していました。これを知った蕭燕燕は撻覧阿鉢を逮捕し、袋に包んで400回鞭打ちするという残酷な処罰を下しました。
しかし、蕭胡輦が撻覧阿鉢を夫にすることを強く求めたため、蕭燕燕は最終的にこれを許可し、二人を一緒に西北を守らせることにしました。
遼史では撻覧阿鉢を「奴隷」と記していますが、これは契丹人ではない征服した部族の男性を指していると考えられます。蕭胡輦の心を捉えた男性は、美しいだけでなく武術にも長け、リーダー的存在だったのでしょう。北部の10部族を統治するには、現地の言語や風習、人間関係を熟知した信頼できる協力者が必要でした。撻覧阿鉢はまさにその人物だったのです。
最後の反逆と悲劇的な結末
その後、蕭胡輦は他国の軍を借りて蕭燕燕を排除しようと計画しましたが、これが露見し兵権を奪われました。1006年、蕭燕燕は蕭胡輦と蕭烏骨里を同時に幽閉し、彼女たちの支持者全員を生き埋めにするという残酷な処置を取りました。そして1007年、蕭胡輦は死刑に処せられました。
権力確立のための冷徹な政治
蕭胡輦は軍を率いて西征し、ケレイトを制圧して西北部を統治し、領土を拡大させた功績のある女性でした。また、宋との戦闘にも参加するなど、遼朝に多大な貢献をしていました。
しかし、蕭燕燕にとって彼女は脅威でしかありませんでした。蕭燕燕は最終的に姉二人を粛清することで、自らの権力基盤を固めたのです。
耶律賢もまた、3つの皇族系統のうち自分の系統以外を滅ぼすことで、権力を確立しました。
まとめ
ドラマでは仲の良い3姉妹として描かれることの多い蕭燕燕、蕭胡輦、蕭烏骨里ですが、現実の権力闘争の前では血縁関係など意味を持ちませんでした。遼朝の歴史は、権力を巡る冷徹な計算と、時として家族さえも犠牲にする政治的現実主義に満ちているのです。
史書の簡潔な記述の背後には、こうした人間ドラマが隠されていることを忘れてはならないでしょう。