中国ドラマ「燕雲台」で描かれた韓徳譲は、実在した遼朝の名宰相です。
ドラマでは蕭燕燕(承天皇太后)の恋人として登場しますが、
実際の韓徳譲の人生は、奴隷の孫から契丹皇族にまで上り詰めた、まさに立身出世の物語でした。
奴隷の血筋から始まった運命
韓徳譲の祖父・韓志古は漢族でしたが、若い頃に契丹に捕らえられ「宮分人」(宮廷護衛の奴隷)となりました。
しかし、その才能を遼の太祖・耶律阿保機に見出され、ついには中書令(宰相)にまで昇進します。
父の韓匡嗣も景宗に重用され、祖父・父ともに契丹の名門・蕭氏と婚姻関係を結びました。
韓徳譲は970年、親の功績により官界入りし、「慎重な仕事ぶり」で知られ順調に出世していきます。
南京防衛戦での武勇
979年、父が南京(現在の北京)留守に任命されると、韓徳譲は軍府の事務を担当し、父に代わって南京を守りました
。同年、宋の太宗が北漢を滅ぼした後、幽燕を攻略して南京を包囲しましたが、
韓徳譲は自ら城に登り、昼夜を問わず防衛に当たりました。
後に耶律休哥が高粱河で宋軍を破った後、韓徳譲は宋軍を挟撃し、再度これを破ります。
この戦いの様子は「燕雲台」でも詳しく描かれています。
景宗の遺言と権力掌握
景宗は臨終前、12歳の息子(後の聖宗)に皇位を継がせ、韓徳譲と耶律斜轸に後事を託しました。
皇后・蕭燕燕が「私は未亡人、子は弱く、貴族は強大で、国境もまた不穏です。どうすべきでしょうか?」と泣きながら訴えると、
韓徳譲と耶律斜轸は「私たちを信じてください、何も心配ありません!」と答えたといいます。
韓徳譲は蕭燕燕に以下の提案をしました:
- 大臣を変更し、各王を自分の領地に戻す
- 私的な会合を禁止する
- 各王から兵力を奪う
これらの手配により、幼い聖宗の地位を盤石なものにしました。
蕭燕燕との関係の謎
母后・蕭燕燕は摂政として朝政を執り行い、韓徳譲をさらに寵愛しました。
ドラマでは二人が昔からの恋人として描かれていますが、
実際には契丹の高級貴族と恋仲になるはずがありません。
しかし、中国の野史では、あまりに韓徳譲を寵愛したことから二人は恋人だったと書かれています。
権力闘争と粛清
韓徳譲の改革は古くからの契丹皇族の反発を招きました。
ドラマでも耶律虎古との対立が描かれています。
実際には韓徳譲が朝廷内で親衛兵の武器で彼の頭を打ち、殺害したとされています。
しかし、お咎めはありませんでした。韓徳譲の権力がいかに大きかったかが窺えます。
軍事的功績
- 986年:宋の太宗の再度の北伐を太后・蕭燕燕と共に退ける
- 988年11月:聖宗と共に宋軍を大破し、ほぼ全滅させる
- 999年10月:聖宗と共に宋を破る
宋との戦争中、韓徳譲は大量の漢人を捕虜とし、遼東に移住させて農業に従事させました。
広告
内政改革の功績
韓徳譲は聖宗を補佐する間、「賢者を任命し、邪悪を去らせる」という方針を掲げ、
契丹族と漢族を問わず才能ある人材を任用しました。
科挙試験を実施し、才能ある漢族官僚を登用した結果、
地方官僚の三分の二を漢族が占めるようになりました。
経済政策
戦争と飢饉に苦しむ州の課税を軽減し、避難民収容施設を設置。
戦後に農民が逃げ出して放置された土地には、作物収穫者を募って収穫物の半分を与える制度を導入。
農業用具の税を免除し、各郡の物価の安定を図りました。
契丹皇族への昇格
1004年、澶渊の盟約締結後、太后・蕭燕燕は正式に韓徳譲に耶律の姓を授与。
韓徳譲には専用の席が設けられ、他の臣僚と同席することなく、拝礼も免除されました。
契丹皇族の系譜に載せられ、正式に契丹皇族の一員となったのです。
1009年12月に太后・蕭燕燕が亡くなると、聖宗は「天子であっても長兄が必要だ」と述べ、
韓徳譲は「皇兄」の地位を得ました。
1011年3月、韓徳譲は71歳で生涯を閉じました。
奴隷の孫から契丹皇族へと上り詰めた、まさに中国史上稀有な立身出世の物語でした。
「燕雲台」のドラマと史実を比較すると、韓徳譲の人物像はほぼ一致していることがわかります。
軍事に政治に優れ、頭脳明晰で長身のハンサムな青年だった韓徳譲。
蕭燕燕との恋愛関係の真偽は定かではありませんが、彼が遼朝の発展に果たした功績は計り知れません。