はじめに
遼の第4代皇帝穆宗(耶律璟、契丹名:耶律述律、931年9月19日 – 969年3月12日)は、
中国史上でも特異な存在として知られています。
専制的で残忍な面を持ちながらも、農業発展や民政において一定の成果を上げた複雑な人物でした。
即位の経緯
951年9月、耶律察割による火神烈乱が発生し、遼の世宗(耶律賢の父)が殺害されました。
穆宗はこの乱を平定し、皇位に就きました。
これにより、皇位は再び遼の太宗の血統に戻ることとなりました。
専制的統治と反対勢力の弾圧
穆宗の治世は徹底した反体制勢力の弾圧によって特徴づけられます。
主な弾圧事件
- 951年 – 穆宗即位
- 952年6月 – 穆宗の叔父を処刑
- 952年7月 – 耶律賢の弟を絞首刑(ドラマ「燕雲台」では宮刑として描かれているが、実際は不倫事件もなく、これは創作)
- 959年11月 – 穆宗の4番目の弟が謀反を起こし処刑
- 960年7月 – 政務大臣と皇室顧問が共に謀反、ともに処刑
- 960年10月 – 李胡とその息子、耶律喜隐の反乱。穆宗は李胡と息子を獄に入れ、李胡は獄死
穆宗は世宗に近い大臣を罷免し、
公然と反抗する者や謀反を起こす者に対して容赦ない弾圧を行いました。
さらに、大臣たちが政府について議論することすら禁じるという徹底ぶりでした。
民政と農業政策の成功
専制的な面とは対照的に、穆宗の前半の治世は民政面で大きな成果を上げました。
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財政・税制改革
- 租税の減免を実施
- 民を安んじる勅令を多数発布
- 財政節約により「民衆は生活に満足した」と後に評価される
農業発展政策
遼史によれば、遼の西の都である雲州(現在の山西省大同市)一帯の農業は大きく発展し、
穀物の収穫量が増加して他国に供給することも可能になりました。
穆宗は農業発展を重視し、以下のような取り組みを行いました:
- 「地牛を打つ儀式」の実施
- 干ばつ時の積極的な雨乞い
- 遼南京(現在の北京)の洪水による減税措置
効果的な略奪戦略
穆宗は安易な兵馬の投入ではなく、
中央平原の労働人口の多い農業地帯を狙って効果的に略奪を行いました。
これにより、遼の農業発展のための大量の労働力と高度な生産技術を獲得し、
農業の発展を促進させました。
治世後半の堕落と最期
治世の後半になると、穆宗は酒に溺れるようになり、
病気のために政治をおろそかにするようになりました。
頻繁な謀反事件により、誰も信じられなくなって精神的に追い詰められたことが原因と考えられます。
969年2月、穆宗は黒山にて殺害され、その生涯を終えました。
まとめ
穆宗は専制的で残忍な面を持ちながらも、
前半の治世では財政改革や農業政策において大きな成果を上げた複雑な皇帝でした。
反対勢力への厳しい弾圧と民政での成功という二面性は、
中国史上でも珍しい存在として記憶されています。
ドラマ「燕雲台」では一部創作が加えられていますが、
史実の穆宗もまた十分にドラマチックな人物だったと言えるでしょう。