韓延輝は、契丹で「胡漢分離」を主張し続けた最初の漢民族政治家です。
中原の北方では、多くの漢人が自らの藩主(漢人の支配者)による富の略奪に耐えられず、契丹の人口の少ない土地を見て、みな生きる道を求めて「契丹に侵入」しました。
これは、漢民族の北方への自然発生的な移民ともいえます。
しかし、漢、契丹の生活習慣、文化的背景が異なるので、いろいろ問題が起きました。
そこで、韓延輝は漢民族と契丹族の分離のシステムを提案しました。
耶律阿保機は、韓延輝の意見を取り入れて北面官(契丹の遊牧システム)
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南面官(中原の漢民族の農業システムの模倣)
を設定しました。
この北面官、南面官の行政システム構築によりその後、さらに多くの漢人が契丹に逃れました。
また、漢民族の文官制度も次第に従来の契丹の草原地帯に入り込むようになりました。
末期には契丹は事実上の胡漢混交地域となり、農業から徴収される税金が契丹経済を強化するようになります。
韓延輝は4代穆宗の時代になくなりましたが、韓徳譲などによってその政策はさらに漢民族よりに強化されていきました。
韓延輝は、韓徳譲の祖父ではありません。