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異人を皇帝にした女性・夏太后の波瀾万丈の生涯|始皇帝の祖母

寵愛なき側室から太后へ――母の愛が変えた歴史

秦の始皇帝の祖父・異人(子楚)を皇帝にしたのは、実母である**夏太后(夏姫)**でした。寵愛を受けない側室だった彼女が、いかにして息子を皇帝の座に就かせたのか。その驚くべき政治手腕と母の愛の物語をご紹介します。


韓の王女から秦の側室へ――寵愛なき日々

夏姫は戦国時代の韓の王女として生まれました。秦と韓の婚姻関係により、秦の昭王の次男・安国君と結婚します。

しかし安国君には多くの側室がおり、夏姫はその中で寵愛を受けることはありませんでした

異人(子楚)の誕生――すべての愛を息子に

紀元前281年、夏姫は安国君の11番目の息子、異人を出産。後の始皇帝の父となる人物です。

寵愛を受けなかった夏姫は、息子の異人にすべての思いを捧げました

母の熱心な指導の下、異人は文学・音楽・武術に秀でた才能ある青年へと成長。後に呂不韋の目に留まるほどの人物になったのは、母の教育の賜物でした。


夏姫、政治的手腕を発揮――運命を変えた決断

紀元前267年、昭王の長男が魏で死去し、次男の安国君が皇太子となりました。

夏姫はこれを好機と見ます。異人に秦の昭襄王へ、父・安国君に代わって「王の孫」になることを申請するよう勧めました。

この行動により、安国君と異人を昭王の心に印象づけ、将来の後継者争いを有利にしようとしたのです。

秦と趙の人質交換が成功し、安国君が帰国。紀元前265年、安国君は正式に太子に即位し、華陽夫人も太子の妻となりました。

しかし夏姫は寵愛を受けていなかったため、爵位は与えられずそのままでした。


呂不韋との運命的な出会い――母の覚悟

夏姫は、人質として邯鄲に渡った異人を恋しく思っていました。秦と趙の争いが絶えない中、異人が辛い思いをしているはずだと知りながら、息子は手紙で「とてもうまくやっている」と心配させまいとしていました。

運命を変えた一通の手紙

紀元前263年のある日、特別な客が夏姫を訪ねてきました。

呂不韋と名乗るその男は、異人の依頼を受けたと言います。夏姫は彼を宮殿に招きました。

呂不韋は異人からの手紙を夏姫に見せました。

夏姫はその手紙を手に取り、しばらく読んでいましたが、声が出なくなり、しくしくと泣きました

しかし彼女はすぐに泣き止んで感情を整え、呂不韋に深々と頭を下げてこう言いました。

「異人のためになるのであれば、私のことはかまわないでください」

華陽夫人を説得――大胆な賭け

その後、呂不韋は大金を払って華陽夫人の弟と妹を買収しました。

ついに華陽夫人を説得し、異人を義理の息子として受け入れることに成功したのです。


異人、邯鄲脱出――600テールの金貨で命を救う

紀元前257年、秦が趙の邯鄲を攻撃したため、趙王は激怒し、異人を殺そうとしました。

事前に知らせを受けた呂不韋は、600テールの金貨を使って異人を邯鄲から脱出させ、秦軍の陣営に逃げ込ませました。

呂不韋と異人は無事に秦へ戻ることができました。


異人、秦に戻る――華陽夫人との巧みな関係構築

秦には安国君の長男・嬴子傒という有力な後継者候補がいました。子傒は大臣の全面的な支持を得ていましたが、華陽夫人の寵愛を受けられないという欠点がありました。

秦に着くと、異人は母の夏姫に会おうとせず、呂不韋の計らいで楚の国の朱の服に着替え、華陽夫人に会いに行きました。

華陽夫人は楚出身だったため、朱の服を見て大変喜び、異人の名前を**「子楚」**に変えました。

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子楚は華陽夫人と良好な関係を保ちながらも、母親の夏姫のことを忘れず、しばしば密かに会っていました

成蟜の誕生――母の最後の贈り物

夏姫は息子を政治的に助けることはできませんでしたが、それでも子楚に韓人の妻を与えました。華陽夫人はそれについて何も言えませんでした。

子楚はこの女性を非常に気に入り、やがて彼女は成蟜という名の息子を産みました。


異人、即位して荘襄王に――夏姫、太后となる

紀元前251年、秦の昭襄王が崩御し、安国君が秦の孝文王として即位しました。華陽夫人は正式に王妃となり、子楚は華陽夫人の援助を受けて皇太子となりました。

同年、6年間趙に取り残されていた**趙姫と政(後の始皇帝)**が秦に送り返されてきました。

わずか3日で王となった子楚

紀元前250年、1年間喪に服していた秦の孝文王は、王位継承のわずか3日後に急死しました。

子楚が秦の荘襄王となったのです。

荘襄王は華陽夫人を華陽太后、夏姫を夏太后としました。

政、皇太子に――華陽太后と夏太后の権力バランス

当初、荘襄王は寵児の成蟜を皇太子にしようとしました。

しかし華陽太后は、夏太后一族の権力に対抗するため、嬴政を皇太子にすることを求めました。

嬴政が長男であることから、結局、嬴政は無事に皇太子に任命されました。


荘襄王、死去――13歳の始皇帝を支えた二人の太后

秦の始皇帝は当時まだ13歳の少年で、国政はすべて太政大臣の呂不韋が取り仕切っていました。

始皇帝の母親は、もともと呂不韋の踊り子にすぎず、王となった始皇帝との関係はよくなかったようです。

その頃、華陽太后と夏太后が秦の始皇帝が頼れる唯一の年長者でした。


夏太后、最高の儀式で葬られる――歴史を変えた母の生涯

夏太后は、嬴政が王位を継承してから7年後、嬴政が20歳の時に亡くなりました。

この頃、秦の始皇帝は成長し、徐々に国を掌握し始めていました。周の王家はすでに滅び、秦の国家は最強の域に達していました。

六国を統一するための戦争が次々と始まり、歴史上重要な局面を迎えていました。

周の王家はもはや存在せず、周の皇帝に縛られることもなく、秦の国力と相まって、夏太后は最高の儀式で葬られました


まとめ――寵愛なき側室が変えた中国史

夏太后は、寵愛を受けない側室という不利な立場にありながら、母の愛と卓越した政治的洞察力で息子を皇帝の座に就かせました。

 

 

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