はじめに
遼朝(契丹)の歴史において、火神淀の乱は王朝の命運を左右する重大な事件でした。この反乱により幼い耶律賢(後の聖宗)は九死に一生を得て、遼朝の政治構造は大きく変化することとなります。テレビドラマなどでは脚色されることも多いこの事件について、史実に基づいて詳しく見ていきましょう。
火神淀の乱の背景:世宗の政策への不満
世宗が招いた三つの対立
火神淀の乱が起こった根本的な原因は、遼の世宗(耶律賢の父)の政策に対する契丹貴族たちの深い不満にありました。
①晋からの降臣重用による契丹貴族の軽視 世宗は中国人である晋からの降臣を多く登用し、伝統的な契丹の貴族たちを軽視する姿勢を見せました。これは遊牧民族としてのアイデンティティを重視する契丹貴族にとって、屈辱的な政策でした。
②漢人女性の皇后立后 さらに世宗は漢人の女性を皇后に立てようとしました。しかし、契丹族の強い反対により、最終的には契丹族から皇后(耶律賢の母)を迎えることとなりました。
③度重なる南征の提案 世宗は中原への南下政策を繰り返し提案しましたが、各部族の貴族たちは戦争による消耗を懸念し、強く反対していました。
中原統治の失敗が決定打に
世宗の南征政策は結果的に大失敗に終わります。中原から軍を撤退させる際、留守を任された人々は現地の統治に失敗し、中原の人々によって追い出される結果となりました。
ところが世宗は、この失態を部下たちのせいにして厳しく非難し、中には処刑される者もいました。このような理不尽な処罰を恐れた他の留守担当者たちは、次々と漢に降伏してしまい、世宗は中原の統治権を完全に失うことになったのです。
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火神淀の乱:宴会場が殺戮の現場に
耶律察割の決起
こうした状況の中、契丹貴族の不満を代弁する形で、宗族であり高官であった耶律察割が世宗に対して反乱を起こすことを決意しました。
4歳の耶律賢の九死に一生
反乱の夜、4歳だった耶律賢も殺害対象となっていました。しかし、ここで注目すべきは、テレビドラマでよく描かれるような韓徳譲による救出劇ではなく、耶律賢自身の機転による脱出だったという点です。
宴会の席が突然血なまぐさい殺戮の場と化した時、幼い耶律賢はとっさに薪の中に身を隠し、助けが来るまで一人で恐怖に耐え続けました。この極度の恐怖体験が、後の耶律賢の病弱な体質の原因になったとも言われています。
穆宗の即位:恐怖政治の始まり
反乱の鎮圧
耶律屋質は何とか現場から逃げ出し、遼の太宗の長男である耶律璟(後の穆宗)にこの緊急事態を伝えました。耶律璟は直ちに軍を起こして耶律察割を討伐し、反乱を鎮圧した後、皇帝の位に就きました。
恐怖に支配された穆宗の治世
しかし、このような血なまぐさいクーデターを経験した穆宗は、常に暗殺の恐怖に怯えるようになりました。誰も信じることができず、部下を理由もなく殺害するなど、恐怖政治を敷くことで遼全体に暗い影を落としました。
おわりに
火神淀の乱は、遼朝の政治体制に大きな変化をもたらした転換点でした。世宗の漢化政策に対する契丹貴族の反発から始まったこの事件は、幼い耶律賢の人格形成にも深刻な影響を与え、さらには穆宗の恐怖政治へとつながっていきました。
この事件を通じて、遊牧民族国家が定住農業社会を統治する際の困難さや、伝統的な支配層と新興勢力との対立構造が浮き彫りになります。歴史の教訓として、政治的バランスの重要性を改めて考えさせられる出来事でもあります。