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耶律賢(遼5代皇帝景宗) 中国史を勉強して各王朝の教訓を生かして国づくり ドラマ燕雲台でも本ばかり読んでいたけど意外に軍も動かせる

耶律賢の生まれ

耶律賢、遼景宗は、948年に生まれ、遼世宗の次男です。母は、漢人でなく契丹人です。

私は、彼は漢人を重用するので母は漢人だと思ってました。遼を強くするために、中国史や中国の思想書をよく読んでいたんですね。

このお母さん、少し調べたのですが、漢人の皇后とは争わうことは好まずただ周囲から推されて契丹人皇后になった方でおとなしくて人望もあったようです。火神淀の乱の時、最初は殺されなかったのですが、反乱を起こした者に諭したために殺されちゃっただけみたいです。こういう優しい性格が耶律賢にも受け継がれたのかなと思います。

火神淀の乱

彼は四歳のとき、両親は火神淀の乱で亡くなりました。彼も殺されるところでしたが、薪の中に隠れて無事でいられました。

遼穆宗が即位した後、永兴宮で彼は穆宗に養なわれました。穆宗は酒好きで怠け者、部下を無差別に殺し、政治を乱暴に運営して反乱が絶えませんでしたが、起こる度に耶律賢によって平定されました。

成長した耶律賢

ドラマ燕雲台では病弱な人でしたが、意外にもオルドを率いる武人でもあったんですね。

耶律賢が成長するにつれ、文武の大臣たちが集まり、密かに耶律賢を皇帝にする計画を練り始めました。

遼穆宗は酒を好み、怠け者で、殺人を好み、暴力的で愚かでした。

朝廷の大臣たちは、朝政を議論するたびに罰を受けていました。

そこで、耶律賢をおすメンバーは、怠け者の穆宗に朝政での議論をやめるよう助言し、穆宗はそれにうまく乗っかってくれたので、耶律賢は穆宗の疑念と攻撃から免れることができました。

969年、二月、遼穆宗は侍従によって殺され、耶律賢は飛龍使女里、侍中の萧思温、南院秘書の高勋ととも

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に千人の騎兵を率いて急いで向かいました。同月中に、契丹族と漢族の大臣たちの支持を受けて、耶律賢は即位しました。

耶律賢の政治

まず、政敵に対して寛容な政策を採用ました。例えば、耶律李胡を皇帝に追尊する、政敵を大量に虐殺しないなどの措置です。

大量に虐殺すると、遺恨が残りますよね。

また賢臣や良将を任用し、民休養を行いました。 これにより内部の政治が安定しました。

 

彼を皇帝に擁立した中国人官僚の高勋を南の秘密院使に任命し、また、韓匡嗣を上京留守に任命し、その後南京留守として任命しました。南京留守の職は元々契丹族が担当していた重要な職であり、韓匡嗣の任命は中国人官僚の地位が明らかに向上したことを示しています。

お父さんの時は。漢人を登用しすぎて、契丹人の反抗を招きましたが、ここら辺は上手かったようです。

中国人官僚の重用は、政権機関の進歩と効率化を大いに促進しました。

彼は中国の官僚に治国の道を尋ね、中国古今の各王朝の経験と教訓を研究し、それを改革の実践に活用しました。賞罰を明確にすること。中国皇帝に倣い試験で能力のある良才を選び活用することです。

中国人地域での農業の発展を支持するだけでなく、草原地域で農業の発展に適している場所では、景宗も人々に土地を開墾させ、生産を発展させました。農業生産を保護し、農業に対する重視のない契丹族が故意に破壊するのを防ぐため、景宗は従者に農作物を無闇に踏まないよう命じ、軍隊が農地を迂回するよう命じました。

また牧畜も盛んにしました。このようにして国力を上げていきました。

耶律賢の死後

982年、耶律賢は云州(現在の山西省大同市)の行宮で狩りに出た際に死去しました。享年35歳。廟号は景宗

また死ぬ際は長男を後継に指名し、これ以降、遼朝の皇位は遼末まで、長男嫡男が皇位を継承する制度を確立しました。

 

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