「男装の麗人」川島芳子には、あまり知られていない、もう一人の”川島の姫”がいました。芳子の姪・川島廉子(かわしま れんこ)。戦って散った芳子とは対照的に、彼女は中国に残って、耐えた人です。文化大革命の悲劇が、この一人の女性の生涯に、そのまま刻まれています。
もう一人の、川島の姫
川島浪速が清朝から託されたのは、川島芳子だけではありませんでした。浪速は、粛親王善耆の長男・憲章の娘——つまり善耆の孫であり、芳子の姪(めい)にあたる少女も、養女に迎えます。川島廉子(愛新覚羅廉鋁〔れんろ〕、1913〜1994)です。
(※しばしば「芳子の妹」と混同されますが、廉子は姪。芳子の実妹は別人の顯琦〔けんき/金默玉〕で、こちらも中国に残って苦難を生きた人ですが、廉子とは別人です。一族の全体像は→「[粛親王善耆——改革者の生涯]」。)
芳子と同じく、廉子も日本で、川島家の娘として育ちました。そして満州国の時代には、国防婦人会などに関わっていきます。一族の期待と、二つの国のあいだで——彼女もまた、自分では選んでいない運命を、負わされていました。
1945年、すべてを失って——それでも、残る
1945年、日本の敗戦。廉子は、すべてを失います。満州国は崩れ、一族の財産は没収され、国民党統治下で困窮する。——けれど、ここに、私が胸を打たれる選択があります。戦後、多くの縁者が国外へ逃れるなか、廉子は、中国に残ることを選んだのです。彼女は、祖国の独立を喜び、新しい中国のために働きたいと、心から願っていました。
「悪い分子」として——文化大革命の悲劇
しかし、その願いは、ついに受け入れられませんでした。共産中国が成立すると、「王族の生まれ」であり「日本育ち」であることが、そのまま彼女を「悪い分子(階級の敵)」の烙印にしてしまう。廉子は労働改造に送られます。そして文化大革命(1966〜)——親族は投獄され、彼女自身は「日本のスパイ」として糾弾されました。北京で生まれ育った娘たちまで、母の出自ゆえに、進学の場で差別を受けます。
祖国のために働きたいと願った人が、その祖国から「敵」とされ、労働と糾弾の歳月に沈められていく。——芳子が銃殺という形で受けた仕打ちを、廉子は、三十年の生き地獄という形で、受け続けたのです。
帰郷、そして『望郷』
けれど、彼女は、完全に見捨てられていたわけではありません。育ての故郷・松本の人々は、廉子を援助し、なんとか日本へ帰国させようと、長いあいだ運動を続けていたのです。それを阻んでいたのは、中国側でした。——だから、彼女の三十年は、「二つの国の両方に捨てられた」というより、帰りたい人と、帰そうとする人がいたのに、国家の壁がそれを許さなかった、という悲劇でした。日中の国交正常化を経て、ようやく中国残留邦人の帰国の道が開きはじめた1981年、三十年の苦難ののち、廉子は67歳で、ようやく日本へ帰ります。松本の人々の願いが、やっと届いた瞬間でした。そして1994年、この世を去りました。
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彼女の生涯を一冊にまとめたのが、娘の川島尚子(しょうこ)です。尚子は1945年、北京に生まれました。文化大革命が始まったとき、彼女は北京の大学生。以後、中学教師、紡績機械工場の工員、酸素工場での職業教育……と、時代に押し流されるように生きました。1983年に来日し、いまは母と同じ松本市に暮らしています。——尚子は、長いあいだ、母を恨んでいたといいます。自分たちの苦しみの原因が、母の出自にあるように思えたから。けれど、母の生涯の全体を知って、ようやく理解しました。母もまた、自分では選べない運命を負わされ、二つの国で苦しみ抜いた一人だったのだと。尚子が母の伝記を書いたのは、この悲劇を、二度と繰り返さないため。その題が——『望郷(ぼうきょう)』です。
私の見立て——「望郷」の、郷はどこか
望んだ「郷(ふるさと)」は、どこだったのでしょう。育ての国・日本か。生まれの国・中国か。——私は、そのどちらでもあり、どちらでもない、と思います。廉子が最後に望んだのは、たぶん、二つの国のどちらかに帰ることではなく、そのどちらからも、一人の人間として認められることだった。国籍でも、血筋でもなく、ただ一人の人として。この『望郷』という題は、廉子だけでなく、芳子にも、善耆にも——歴史の波間に呑まれた、この一族全体の上に、そのまま掲げられます。
歴史は、勝者が書きます。だから、勝者の物語からこぼれ落ちた「名もなき敗者の声」は、放っておけば、消えてしまう。芳子の二百首の和歌がそうであったように、廉子の生涯もまた、娘が書き残さなければ、誰にも知られず消えていくはずでした。消えかけた母の名に、娘が光を当てた——『望郷』という本は、それ自体が、「勝者が書く歴史」への、静かな、しかし確かな抵抗なのだと思います。
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