この記事は、川島芳子まわりの人々を結ぶ「背骨」です。バラバラに見える善耆・浪速・芳子は、じつは**満蒙独立運動**という一本の線でつながっています。ただし先に断っておきます。これは**弁護でも告発でもありません**。満蒙独立運動は、日本の大陸進出と分かちがたく結びついた運動で、中国から見れば侵略の一環です。その文脈を消さずに、その中にいた「四人の人間」に、いったん戻してみたい——それがこの記事の狙いです。
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## 一行の裏に、四人の人間がいた
「漢奸」「スパイ」——歴史の表舞台では、彼らはたいてい悪役として一行で片づけられます。けれど、その一行の裏には、滅びゆく王朝を背負った四人の人間がいました。
二人の皇族——**溥偉(ふい/恭親王)**と**善耆(ぜんき/粛親王)**。彼らに半生を捧げた信州松本の男——**川島浪速(かわしま なにわ)**。そして、その二人の父を持つ娘——**川島芳子(かわしま よしこ)**。
清朝最後の「有能な改革者」だった善耆は、なぜ最後に日本と手を組んだのか。
血筋の正統を誰より背負った溥偉は、なぜ家財を蕩尽してまで復辟に殉じたのか。
松本から大陸へ渡った一人の日本人は、なぜ清朝の皇女を養女に迎えたのか。
そして、実父と養父という二つの世界に引き裂かれた少女は、どんな大人になったのか。——ここでは、いったん彼らを、人間に戻してみます。
## 溥偉と宗社党——退位を、最後まで拒んだ人々
**溥偉(1880〜1936)**は、洋務運動の大政治家・奕訢(えききん=初代恭親王)の孫。恭親王家も世襲罔替の鉄帽子王だったため、1898年に二代目の恭親王位を継ぎました。血筋では、清朝皇族の最上層です。政治的には徹底した強硬派で、1912年の溥儀退位に、最後まで反対しました。
その退位反対派が結成したのが、**宗社党(そうしゃとう)**——正式には「君主立憲維持会」。1912年初頭、退位阻止と袁世凱への対抗を目的に、満洲貴族が作った結社です。中心は良弼(りょうひつ)・溥偉・鉄良ら。ところが軍事的支柱だった**良弼が1912年1月、彭家珍の爆弾テロで暗殺されると、党は一気に崩れ、2月の退位が決定的になりました**。宗社党は、退位阻止には失敗して短命に終わります。けれど、その人脈と理念は、消えませんでした。次の形——**満蒙独立運動**へと、流れ込んでいくのです。
## 満蒙独立運動とは——そして、川島浪速という結節点
清朝を中国本土でそのまま復活させるのが難しいなら、**満洲・モンゴルに清室を戴く独立国家を作り、そこを足場に復辟を目指す**——これが満蒙独立運動の構想でした。そして日本側にとっては、対露・対中の緩衝地帯として満蒙を勢力圏に置く狙いと、これが重なった。ここが、この運動の光と影の両面です。
退位後、善耆も溥偉も、日本の勢力圏・旅順へ移り、同じ「清朝復辟・満蒙独立」を目指す満洲貴族のネットワークに属しました。その**日本側のオルガナイザー**が、川島浪速です。彼は、警察制度の現場で結んだ善耆との盟友関係を土台に、日本軍部や大陸浪人の支援を彼らへ橋渡ししました。運動は、大きく二度。
– **第一次満蒙独立運動(1911〜12年)**——辛亥革命の混乱に乗じ、川島浪速と善耆を軸に、モンゴル王公や日本の大陸浪人を巻き込んで独立を画策。しかし当時の日本政府は正式な支援に踏み切らず、頓挫します。
– **第二次満蒙独立運動(1916年)**——袁世凱が帝政を強行し、反袁の機運が高まった隙を突いたもの。モンゴルの将・**巴布扎布(バボージャブ)**が騎兵を率いて挙兵し、より軍事色を帯びます。ところが張作霖の奉軍との戦いで**巴布扎布が戦死**、袁世凱も病死して反袁の大義が消え、日本政府も手を引き、運動は崩壊しました。
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> **ここは正確に——「日本の国策」と一括りにしない** 二度とも失敗した最大の理由は、川島・善耆ら現場の構想が、つねに東京の正式な国策より**先走っていた**点にあります。「日本が一枚岩で満蒙独立を推した」のではありません。**大陸浪人と一部の軍人+善耆ら清室が走り、政府がそのつど梯子を外した**——これが実際の構図でした。この温度差を消してしまうと、話は不正確になります。
## 芳子——同盟を、血縁で固める
この運動のさなか、善耆は、盟友・川島浪速に、自分の**第14王女・顯㺭(1907生)**を養女として託します(来日・縁組は1912〜15年頃)。のちの川島芳子です。この養女縁組は、単なる個人的な親交を超えて、**善耆=川島の同盟を血縁で固め、復辟・独立の事業を、次の世代へ引き継ぐ**という意味を帯びていました。実父・善耆と養父・川島浪速——二つの世界の線が、芳子という一人の少女で交わったのです(芳子の生涯は→「[川島芳子]」)。
## 次世代への持ち越し——芳子と甘珠爾扎布の政略結婚
その「次世代への継承」が、もっとも露骨な形をとったのが、芳子の結婚でした。**1927年、旅順の大和旅館**。相手は、第二次満蒙独立運動で戦死した将軍・巴布扎布の**次男・甘珠爾扎布(カンジュルジャブ、1903生)**。媒酌は、元関東軍参謀長の斎藤恒。——つまりこれは、本人どうしの愛ではなく、**「満蒙連盟」を組み直すための政略結婚**でした。父・巴布扎布が満蒙独立運動の同盟者として戦場に倒れ、その十一年後、息子が川島浪速のお膳立てで芳子と結ばれる。**戦死した将軍の同盟が、その息子と芳子の結婚という形で、次の世代へ持ち越された**のです。けれど、この結婚も長くは続かず、芳子は嫁ぎ先と合わずに家を出て、三年ほどで破綻。彼女はやがて上海へ流れ、諜報の世界へ入っていきます。
## 私の見立て——夢を見た者は先に消え、後始末は次の世代へ
四人の人生を、一本の時間軸に並べると、切ないほどはっきりした形が見えます。**1898年、溥偉と善耆が、二つの鉄帽子王を同じ年に継ぐ**ところから物語は始まる。**1912年前後**に、退位・宗社党の瓦解・二人の亡命・芳子の養女縁組が数年に密集し、ここがネットワーク全体の分水嶺になる。そして——**夢を見た皇族たちは、先に退場します**。善耆は1922年、溥偉は1936年に、いずれも念願の復辟を見ないまま世を去る。彼らの死後、**1932年に満洲国が成立しますが、それは彼らが夢みた「清室の独立国」ではなく、日本(関東軍)の傀儡国家**でした。皮肉なことに、夢を仕掛けた本人たちは、その”実現”を見ていない。時代の後始末を背負わされたのは、**運動を仕掛けた日本人(浪速)と、託された娘(芳子)**の世代だったのです。
——だからこの物語は、英雄譚でも告発でもありません。**一つの世界が崩れていくとき、その中心にいた人々が、何を信じ、何を選び、何を失ったのか**。その記録です。中国が善耆を「極悪人」と見るのには、日本の大陸進出という、消せない歴史の文脈があります。それを認めたうえで、なお、彼らを一人の人間として見ることは、できるはずだと、私は思うのです(「[歴史は勝者が書く]」)。そして——この四人を結ぶ結節点が、私の故郷・松本から出た川島浪速であり、芳子自身も松本高女に学んだ町の娘だった、という二重の縁が、私にこの記事を書かせています。
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◀ ゆかりの人:[小平総治(穂高神社の白松)]
◀ English:[The Manchu-Mongol Independence Movement and Four Human Beings]
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