>この記事は、「[和氏の璧]」の続きです。命がけで守られたあの宝玉は、やがて伝国璽(でんこくじ)——皇帝の正統そのものを示す印璽——に姿を変え、その後、千年にわたって、奪われ、欠かれ、隠され、ついに消えました。「これを持つ者こそ、本物の天子」とまで言われた一個の玉。なぜ人は、それほどまでに一個の印を欲したのか。そして、なぜ今もレプリカが売れるのか——天命のしるしの、数奇な全史です。
伝国璽の誕生——和氏の璧から、皇帝の印へ
紀元前二二一年、天下を統一した秦の始皇帝は、宰相の李斯(りし)に命じて、伝説の宝玉「[和氏の璧]」(一説には藍田の玉とも)から、一個の印璽を作らせました。そこに刻まれた八文字が、これです。
> 受命于天 既寿永昌(命を天に受く、既に寿(ひさ)しく永く昌(さか)えん)
> ——天命によって授かったこの御代は、長く久しく栄え続けるであろう。
この八字こそ、伝国璽の魂です。「受命于天」——私の支配は、天が授けたものだ。つまりこの印は、ただの実務の判子ではなく、「天命を受けた、正統な皇帝である」という宣言そのものでした(天命という思想は→「[牧誓・以徳配天]」)。
[鼎]が王朝の正統のシンボルだったように、[圭や璧]が権力を可視化したように——伝国璽は、天命を「握れる一個のモノ」にした、究極の物体化だったのです。
漢から三国へ——奪い合われる「正統」
秦が滅びると、最後の王・子嬰(しえい)は、この璽を劉邦(漢の高祖)に差し出しました。こうして璽は「漢の伝国璽」となり、以後、これを持つ者が正統の皇帝という不文律が、生まれていきます。
王莽と、欠けた角 前漢の末、帝位を簒奪しようとした王莽(おうもう)は、璽を握っていた伯母の太皇太后・王政君に、引き渡しを迫ります。怒った太后は、璽を地に投げつけました。このとき龍の鈕(つまみ)の一角が欠け、のちに金で繕われた——これが「金鑲玉(きんじょうぎょく)」、金で縁取られた玉の由来です。天命のしるしに刻まれた、消えない傷。ちなみにこの王莽、理想の古典「[周礼]」にならって国を作り替えようとした、あの復古主義者です。「正統」に最もこだわった男が、最も乱暴に璽を奪った——皮肉なものです。
時代が三国に下ると、璽はさらに劇的に流転します。後漢末の動乱で行方知れずになった伝国璽を、孫堅(そんけん)が、廃墟と化した洛陽の井戸の底から発見した。やがてそれを奪った袁術(えんじゅつ)は、「璽さえあれば天子になれる」とばかりに皇帝を僭称し——あっけなく滅びました。印を持っても、天命がなければ滅ぶ。璽は、その後、曹操の手を経て、漢の献帝のもとへ戻ります(このあたりは、ドラマ「[三国機密]」が描く献帝の世界です)。
曹丕の、もう一つの「書き換え」 西暦二二〇年、漢を奪って魏を建てた[曹丕]は、禅譲とともにこの伝国璽を手にしました。そして彼は、璽の側面に「大魏、漢の伝国璽を受く」と新たに刻ませたと伝わります。「自分は簒奪者ではない、正統に受け継いだのだ」と証を残したかったのでしょう。けれど——わざわざ刻まなければ証明できない正統など、かえって怪しい。「[今度は私が歴史書を書く番だ]」と言った曹丕の、正統への執着が、こんなところにも刻まれているのです。
そして、消えた——五代の戦火、九三六年
晋、五胡十六国、南北朝、隋、唐——伝国璽は、王朝が代わるたびに受け継がれ、正統の証であり続けました。けれど、唐が滅びたあとの五代十国の大混乱が、ついにこの玉を、歴史から消し去ります。
九三六年(年明けて九三七年正月)、後唐の最後の皇帝・李従珂(りじゅうか)は、反旗をひるがえした石敬瑭(せきけいとう)と、その後ろ盾の契丹(遼)の軍に、都・洛陽を包囲されました。万策尽きた李従珂は、一族と伝国璽を抱えて楼閣にのぼり、火を放って、自らもろとも焼身します。
——以後、伝国璽の確かな行方は、誰も知りません(別の説では、その後の璽は、九四六年に後晋の皇帝が遼の太宗に捕らえられたとき、北へ持ち去られて消えた、とも伝わります)。
私の見立て——璽が消えた年に、扉も開いた ここに、見逃せない符合があります。李従珂が璽もろとも焼け落ちた九三六年は、まさに石敬瑭が、契丹への見返りに「[燕雲十六州]」を割譲した、あの年なのです。中華の正統のしるしが炎に消えたその同じ年に、草原帝国・遼が壁の内側へ入る扉が開いた。
古い「天命の象徴」が灰になり、新しい「征服王朝」が立ち上がる
——時代の蝶番が、九三六年という一点で、音を立てて回ったのです(この大きな流れは→「[安史の乱は遼の前哨戦だった]」)。
その後——みな、贋物だった
伝国璽が消えたあとも、王朝は「正統の証」を渇望し続けました。だから、宋・元・明・清と、たびたび「伝国璽が見つかった!」という騒ぎが起きます。
けれど、そのほとんどは贋物でした。明を建てた太祖・朱元璋は、ついに本物を手にできなかったことを「生涯の心残り」の一つに数え、清の乾隆帝は、献上された「伝国璽」を、にせものと一蹴しています。本物は、九三六年の炎の中に消えたきり、二度と現れなかったのです。
私の見立て——なぜ、人はそこまで一個の印を欲したのか
考えてみれば、不思議な話です。たかが一個の玉の印。なぜ皇帝たちは、それを井戸の底から探し、角が欠けても金で繕い、贋物でも欲しがり、抱いて火に飛び込んだのか。
答えは、伝国璽が「天命」という、目に見えないものを、唯一目に見える形にしたモノだったからです。天命は、誰にも見えない。だからこそ人々は、「この印を持つ者=天が選んだ者」という約束を、みんなで信じることにした。璽の力は、玉そのものにではなく、それを信じる無数の人の心の中にあった。だから袁術のように、印を持っても心が伴わなければ滅び、逆に、本物が消えたあとも、人々は贋物にすがってでも「正統」を演じ続けた。伝国璽とは、二千年つづいた、壮大な“約束ごと”の結晶だったのです。そして——本物が永遠に失われたことで、かえってその伝説は、永遠になりました。
外周からの、小さな金印——日本は「天命」ではなく「認定」をもらいに行った
ここで、視点をぐっと外へ振ってみます。中華の天子が「天命まるごと」を握った玉が伝国璽なら、その同心円の一番外——「東夷の果て」の島国が、命がけで海を渡ってもらってきた印が、あの「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印です。
これが、じつに小さい。一辺およそ二・三センチ、重さ百グラムちょっと、つまみは蛇の形(蛇鈕)。後漢書東夷伝に「光武、印綬を賜う」とあり、西暦五七年、後漢の光武帝が倭の使者に与えたものと伝わります。伝国璽が「天命そのもの」なら、この金印は、無数の星の一粒に「お前も星のうちだ」と押してやる、いわば認定シール——その大きさの差が、そのまま「中心」と「外周」の距離なのです。命がけで海を渡って、返ってきたのが手のひらに乗る蛇一匹。不憫といえば、不憫です。
しかもこの金印、握った人がどんな最期を迎えたのかは、誰も知りません。一七八四年、志賀島(しかのしま)の田んぼから、農民がふいに掘り当てた。なぜ島に埋まっていたのかは、今も謎のままです。
ここで大事なのは、これが「日本」の印ではないこと。漢書地理志は、当時の倭を「分かれて百余国となる」と記します。列島には百ほどの小国が乱立していて、金印をもらった「委奴国」は、その一国にすぎない。しかも当時、中国へ渡るのは、今でいえば月へロケットを打ち上げて帰還するような大事業でした(ずっと後の遣唐使ですら、船は何隻も沈み、阿倍仲麻呂は帰れず、鑑真は六度目でやっと海を渡った)。命の確率で渡る旅だからこそ、帰ってこられること自体が「うちは本気の国だ」という高くつく証明になる。そこへ中心の天子のお墨付きまで加われば、国内の九十九のライバルに、決定的な差がつく。じっさい邪馬台国の卑弥呼が魏から「親魏倭王」の称号と金印を授かったのは、南の狗奴国(くなこく)と戦争していた最中でした。「魏公認の倭王」という称号は、ライバルを抑えるための外交カードそのもの。
天子は軍を出さなくても、周りの自称・王たちが勝手に「認められたい」と競い合ってくれる——これが、中心が「正統」を配るだけで序列ができあがる、天子システムの巧妙さです。
私の見立て——認定がほしい島と、天子を名乗った島 日本は、長いあいだ「認めてください」の側にいました。卑弥呼の〔親魏倭王〕、倭の五王が南朝に求めた将軍号、ずっと下って足利義満が明から受けた〔日本国王〕——どれも「中心に認定してもらう」ための印です。ところが日本は、もう一つの手も打った。聖徳太子の遣隋使の国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」。外周にいながら「うちにも天子がいる」と言い張った瞬間です。北辰(北極星)は一つのはずなのに、二つ名乗った。煬帝が「無礼な蛮夷の書だ」と不機嫌になったのも当然でしょう。そして使者の小野妹子は、帰りに煬帝の返書を「百済に奪われました」と報告して、流罪になりかけて赦される。あの返書はまず間違いなく「お前は臣下だ」式の、朝廷に見せれば大問題になる文面だった——妹子は、それを海に沈めて(なくしたことにして)帰ったのだ、というのが通説の読みです。認めてほしい気持ちと、対等だと言い張る気持ち。そのちょうど境目に立たされて、天命の”現物”を握りつぶしたのが、妹子でした。一番かわいそうで、一番えらい。
おわりに——今も、デスクに置きたい「天命」
最後に、現代の話を。じつは伝国璽は、今もとても人気があります。博物館の土産物店やネット通販では、「受命于天 既寿永昌」と刻んだレプリカや印章型のグッズ、置物(フィギュア)が売られ、歴史ドラマのファンや風水を好む人々に、静かに愛されています。
二千年前、皇帝だけが握れた「天命のしるし」を、いまは誰もが、数千円で買って、自分の机に置ける。——これは「[纏足の金蓮歩を、現代のプロジェクションマッピングが誰のものにした]」のと、どこか似ています。かつて権力の頂点を意味した一個の印が、時を経て、歴史を愛する人の手のひらに収まる。誰でもプチ始皇帝なのかプチ袁術(えんじゅつ)になれる。本物は炎に消えても、「正統への憧れ」だけは、レプリカに姿を変えて、今も生き続けているのです
ただし——買えるのは「プチ袁紹」まで
南の淮南では、弟(袁術)が皇帝を僭称し、北では、兄(袁紹)が勝手に玉璽を刻む。[曹操]
そのレプリカを机に置いても、なれるのはせいぜい「プチ袁紹(えんしょう)」止まりです。モノだけは手にしたのに、天下は取っていない——それは、孫堅が井戸から拾った璽を抱えて皇帝を名乗り、あっけなく滅んだ袁術と、まったく同じ立ち位置だから。逆に「プチ始皇帝」気分には、絶対になれません。始皇帝の側の中身——六国を併呑して天下を取ったという事実——は、玉をいくら握っても、湧いてこないからです。鼎(モノ)は量産できても、天命は量産できない(→「[鼎の軽重を問う]」の「在徳不在鼎」)。つまりレプリカの伝国璽は、構造上「袁紹製造機」であって、けっして「始皇帝製造機」にはなれない。机の上の小さな玉璽は、私たちに、その二千年の真実を、そっと、可笑しく、教えてくれるのです。
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◀ この記事の前編:[和氏の璧(伝国璽になった宝玉)]
◀ 天命の物体化:[鼎の軽重を問う] | [玉圭・璧・鉞] | [牧誓・以徳配天] | [天書降臨]
◀ 璽をめぐる人々:[周礼の六官(王莽の復古)] | [曹丕(魏の受禅)] | [三国機密(献帝の世界)]
◀ 璽を詠んだ詩:[蒿里行(曹操「刻璽於北方」・三国機密33話)]
◀ 消えた九三六年:[燕雲十六州(石敬瑭の割譲)] | [安史の乱は遼の前哨戦だった]
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