> ※この記事は、「[玉圭・璧・鉞]」で触れた璧(へき)の、いちばん有名な一枚——「和氏の璧」だけを取り出した一篇です。卞和(べんか)の受難から、藺相如(りんしょうじょ)の知略、始皇帝の伝国璽まで、一気にたどります。
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そもそも「璧」とは
「璧」とは、円盤状で、中心に丸い孔(あな)の空いた玉器です。古代中国では、太陽や月を象徴する祭礼の器として珍重され、玉器の中でも最高の格式を持つとされました(璧が「天を祀る最高位の玉器」だった話は→「[玉圭・璧・鉞]」)。そのもっとも名高い一枚が、楚(そ)の国で生まれた「和氏の璧」です。
> なお、台北の故宮博物院などにある戦国時代の璧は、「和氏の璧」とは別物です。伝説のあの璧の現物を、いま目にすることはできません。
和氏の璧、誕生——認められなかった宝の悲劇
物語の出どころは、『韓非子(かんぴし)』の「和氏」篇。春秋時代、楚の卞和という男が主人公です。
卞和は、山中で「磨けば、世にも美しい玉になる」と確信した原石を見つけ、楚の厲王(れいおう)に献上しました。ところが、鑑定にあたった玉職人の答えは「ただの石」。卞和は王を欺いた罪に問われ、左足を切られてしまいます。
次の武王(ぶおう)の代、卞和はふたたび献上を試みます。けれど結果は同じ。今度は右足を切られ、両足の自由を失いました。
さらに次の文王(ぶんおう)の代。卞和は、その石を抱いたまま、来る日も来る日も泣き続けていました。訝しんだ王が、理由を問わせます。卞和は答えました——「足を切られたことが悲しいのではありません。宝玉なのに『ただの石』とされ、正直者なのに『嘘つき』と呼ばれる。それが、悲しいのです。」王が、その石を磨かせてみると——果たして、息をのむほど美しい玉が現れました。これが、王の名にちなんで「和氏の璧」と呼ばれた、伝説の宝玉です。
私の見立て——卞和は、認められなかった者すべての影
この物語が二千年も語り継がれてきたのは、宝玉の話だからではありません。真価は、なかなか認められない——その理不尽が、人の心を刺し続けるからです。
宝石でさえ、磨かれるまでは「ただの石」と間違われる。ましてや、人の才能や誠実さは、もっと見抜かれにくい。しかも卞和は、真実を口にしたために、二度までも罰せられました。
正しいことを言う者が、かえって身を滅ぼす——
この影は、このブログで何度も出会ってきたものです。同じ楚の国で、正しさを説いて退けられ、川に身を投げた[屈原]。志を抱きながら時代に容れられなかった[杜甫]や[李白]、[龔自珍]。卞和は、その「認められなかった者たち」の、いちばん古い影法師のように、私には見えます。両足を失ってなお石を抱いて泣いた彼の姿は、「真価を信じ続けることの、苦さと尊さ」を、同時に語っているのです。
> もう一つの読み方——沈黙という処世
ただし、この物語は、きれいな「誠実の讃歌」だけでは終わりません。裏返せば、「君主に真実を告げても、受け入れられないことがある。ならば、黙っていたほうが身のためだ」という、苦い処世訓でもあります。卞和は二度足を切られて、ようやく三度目に報われた。けれど、三人目の王に出会えなかったら?——多くの人は、最初の一度で口をつぐむ。真実を言うべきか、黙るべきか。この璧は、その重い問いも、抱えているのです。
張儀の反論——「物より、人材」(ドラマ『芈月伝』より)
この璧をめぐって、まったく違う角度から斬り込む人物がいます。戦国の大外交家・張儀(ちょうぎ)です。中国ドラマ『芈月伝(びげつでん/ミーユエ)』第三十七話で、彼はこんな趣旨の台詞を放ちます。
> 「楚にいたころ、和氏の璧が紛失して、身なりの貧しかった私が疑われ、打たれた。——たかが石ころのために、人材を失う。そんなくだらないものなら、私が買い取って、木っ端みじんに砕いてやる。」(※ドラマ内の台詞)
張儀は、世の人々が宝玉に執着するあまり、もっと大切なもの——人の才——を見失っている、と喝破するのです。石や金は、どれほど高価でも、それ自体は何も生み出さない。
けれど人は、その才と行いで、国を築き、歴史を動かす。「物の価値」と「人の価値」、どちらを上に置くか。
卞和は「物(玉)の真価」を信じて足を失い、張儀は「物より人」と言い切って天下を渡り歩いた。同じ璧が、正反対の二つの生き方を照らし出すのが、面白いところです(張儀の生きた秦の現実主義は→「[商鞅]」「[尉繚]」)。
「完璧」の語源——藺相如、命がけの知略
時代は下って、戦国後期。和氏の璧は、めぐりめぐって趙(ちょう)の国の宝になっていました。これを知った秦の昭襄王(しょうじょうおう)が、「十五の城と交換しよう」と申し出てきます。趙の恵文王は、進退きわまりました。断れば強大な秦が怒る。応じれば、城は渡されず璧だけ奪われる恐れがある。
そこで白羽の矢が立ったのが、臣下の藺相如でした。秦へ赴いた藺相如は、昭襄王にまるで城を渡す気がないと見抜くと、「璧に、小さな傷がございます」と偽って、いったん璧を自分の手に取り戻します。そして、宮殿の柱を背に、こう言い放ちました——「もし無理に奪おうとなさるなら、私の頭は、この璧もろとも、柱に打ちつけて砕け散るでしょう。」王は、ひるんで手を出せませんでした。藺相如は、その隙に密かに供の者を走らせて璧を趙へ返し、璧を一片も欠けさせることなく、持ち帰るという使命を、みごと全うしたのです。
これが「完璧帰趙(かんぺききちょう)」——璧を完(まっと)うして、趙に帰る。ここから、「完全で、欠けるところがない」という意味の「完璧」という言葉が生まれました。私たちが何気なく使うあの二文字の奥には、命を賭けて宝を守り抜いた、一人の臣下の物語が息づいているのです。
その後の運命——伝国璽へ、そして天命のしるしへ
物語には、続きがあります。秦の始皇帝が六国を統一したのち、宰相の李斯(りし)に命じて、この璧から「伝国璽(でんこくじ)」——国家の正統を示す印璽——を作らせた、と伝わります。そこに刻まれた八文字が、これです。
> 受命于天 既寿永昌(命を天に受く、既に寿(ひさ)しく永く昌(さか)えん)
> ——天命によって授かったこの御代は、長く久しく栄え続けるであろう。
この印を持つ者こそ「正統な皇帝」とみなされ、持たぬ者は「印なき臣」と侮られるほど、伝国璽は強大な象徴性を帯びました。
天を祀る玉が、王朝の正統そのものの証へ。これは、[鼎]が天命のシンボルだったのと、まったく同じ——「[天命という見えないものを、握れるモノに託す]」古代中国の癖です。
「受命于天」の四字が、まさに天命思想そのものを語っています(→「[牧誓・以徳配天]」)。伝国璽は歴代王朝に受け継がれましたが、五代十国の後唐のころ、忽然と姿を消し、以後その行方は、いまも謎のままです。
> 史実への留保——本当に和氏の璧から作られたのか ここは慎重に。和氏の璧が伝国璽に加工されたという話には、学術的な疑問もあります。『太平広記』などに「始皇帝が和氏の璧を璽とした」とありますが、その多くは後世の創作で、確かな一次史料は乏しい。しかも、和氏の璧は円形で孔が空いているのに、印璽は四角形。形を変えるのは難しく、「伝国璽は別の玉(藍田玉とも)で作られた」とする見方も有力です。美しい物語ほど、後から繋ぎ合わされやすい——史料の常です。
おまけ——和氏の璧は、結局なんの石だったのか
最後に、ちょっとロマンのある話を。「正面から見ると白く、横から見ると青い」という古文の描写を手がかりに、現代の地質学者たちが、その正体を推理しています。
ひとつは、ラブラドライト(虹彩月長石)説。角度によって青・緑・白がきらめく「変色効果」を持ち、「磨くまで普通の石に見える」性質が、卞和の受難の理由まで自然に説明してくれます。もうひとつ、学界で有力なのが、河南・南陽の独山玉(翡翠の一種)説。楚の荊山に近い産地で、春秋時代に祭器として広く使われ、「緑」と「白」の記述とも合う、といいます。——もちろん現物がない以上、答えは出ません。けれど、二千年前の宝の正体を、現代科学が真顔で追いかけているという事実自体が、この璧の魔力を、よく物語っています。
まとめ——二千年を超えて届くもの
「和氏の璧」は、ただの宝玉の話ではありません。真価ある者が認められない理不尽、真実を語る者の危うさ、そして時をかけてようやく花開く価値——春秋の昔も今も変わらない、人の世の本質を、射抜いています。張儀の言葉を借りれば「どんな宝石より、人材こそ重い」。物ではなく人に価値を見出す視点もまた、歴史を動かしてきた知恵でした。そして、私たちが毎日使う「完璧」の二文字に、命がけで璧を守った藺相如が、いまも生きている。——そう思うと、言葉の重みが、少しだけ変わって見えてこないでしょうか。
> 関連する成語 完璧帰趙(かんぺききちょう)=璧を完全なまま趙に持ち帰ること。「完璧」の語源。/価値連城(かちれんじょう)=いくつもの城に値するほど価値があること。和氏の璧が「十五城」と交換交渉されたことに由来(「連城の璧」とも)。
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