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粛親王善耆——改革者の生涯と、消された記憶【鉄帽子王】

このブログの「川島芳子」まわりの記事の、いちばん上流にあたる親記事です。芳子の父、そして一族の運命を決めた人——粛親王善耆(しゅくしんのう ぜんき)。改革者でありながら、最後まで清朝に忠を尽くし、その選択が、子孫に数十年の苦難を負わせることになった、その生涯を見ていきます。

「鉄帽子王」という家柄

善耆(1866〜1922)の家は、ただの皇族ではありません。清朝第2代皇帝・太宗ホンタイジの長子・豪格(ホーゲ)を初代とする、粛親王(しゅくしんのう)家。清朝の建国に殊勲を立てた一族に与えられた「鉄帽子王(てつぼうしおう)」——錆びない鉄の帽子、すなわち代を重ねても爵位が下がらない、永久世襲の親王位を許された、八家のうちの一つでした。清朝を通じて最高位の皇族家系。その第10代当主が、善耆です。

日本との縁の始まり——義和団事件、王府に日本人をかくまう

善耆と日本の深い関わりは、1900年の義和団事件に始まります。北京が排外運動の炎に包まれたとき、善耆は自分の王府(王家の屋敷)の門を開け、逃げ場を失った日本人居留民をかくまい、その身を守ったのです。当然、その王府は義和団の攻撃を受け、ぼろぼろになりました。——彼は、地政学的な計算でそうしたのではありません。ただ、正しいと信じたことをした。けれど、この一件で日本政府は粛親王家に深い恩義を感じ、これが、のちの日本と粛親王家の、長い縁の出発点となったのです。

立憲君主制を夢見た改革者

善耆が生きたのは、清朝が日ごとに傾いていく末期でした。彼は、旧来の絶対君主制のままでは清朝は保たないと考え、日本の明治維新にならった立憲君主制による再興を、熱望します。清朝最後の十年の改革「光緒新政」のなかで、善耆は民政部の要職を歴任し、近代的な警察制度の創設、新式学堂(近代学校)の設立、都市行政の近代化を進めました。

とりわけ警察制度の創設は、一人の日本人との出会いから生まれます。旧松本藩士の子・川島浪速(かわしま なにわ)。義和団の乱で紫禁城を砲撃から救ったこの男を、善耆は北京警務学堂の総監督に迎え、共に清朝の警察を築きました(浪速の生涯と二人の絆は→「[川島浪速——紫禁城を救った松本人]」)。善耆は、単なる保守派でも、根なしの急進派でもありません。西洋の制度を積極的に学びながら、伝統との調和を探った——そこに、彼の改革の本質がありました。

辛亥革命と、最後の抵抗

しかし、守旧派の妨害で改革は実らず、1911年、辛亥革命が勃発します。袁世凱の圧力のもと、多くの皇族が溥儀の退位を受け入れていくなか、最後まで退位に反対した二人のうちの一人が、善耆でした(もう一人は恭親王家の溥偉)。それでも大勢は覆らず、清朝復活を諦めきれない善耆は、日本の協力に望みを託して、北京を脱出し、旅順へ亡命します。

その脱出のとき、善耆が詠んだとされる詩があります。

> 幽燕は故国にあらず/嘯(うそぶ)きながら遼東に返り/馬を回して烽火(ほうか)を看れば/中原は炎に落つ

——故国はもう、ここにはない。馬を返して振り返れば、中原(ちゅうげん)が炎に呑まれていく。清朝の滅亡と、故国を失った王族の悲哀が、この四行に凝縮されています。1922年、善耆は復興の夢を果たせぬまま、旅順で世を去りました。享年56。死に際して、溥儀から「忠」の一字を贈られ、以後「肅忠親王(しゅくちゅうしんのう)善耆」と呼ばれます。最後まで清朝への忠を貫いた、その証でした。

娘を、日本に託した父

亡命後も、善耆は日本と結んだ清朝再興を諦めませんでした。その一心から、彼は子どもたちに日本語を学ばせ、そして——第14王女・顯㺭(わずか数え七つ)を、川島浪速の養女とします。日本名「芳子」。のちに「男装の麗人」として世界に知られる、川島芳子です(その生涯は→「[川島芳子——映画とは違う、本当の彼女]」)。さらに善耆の孫(長男・憲章の娘)も浪速の養女となり、川島廉子として日本で育ちました(→「[川島廉子——中国に残った清朝の姫]」)。「わが子を、わが孫を頼む」——その言葉の重さは、善耆と浪速のあいだに積み重なった信頼なしには、語れません。

戦後——なぜ粛親王家だけが「漢奸」とされたのか

ここに、歴史の残酷な非対称があります。中華人民共和国の成立後、同じ満洲族の王族でありながら、醇親王家(溥儀)と粛親王家(善耆)は、正反対の運命をたどりました。

| | 醇親王家(溥儀) | 粛親王家(善耆) |
| — | — | — |
| 日本との関わり | 政治的に利用された側 | 自ら積極的に協力 |
| 建国後の評価 | 「改造可能」として特赦 | 「漢奸(裏切り者)」として断罪 |
| 子孫 | 要職に就く者も | 文革終結まで迫害 |
| 名誉回復 | 統合のシンボルに | 国家レベルでは、なし |

溥儀は思想改造を経て特赦され、公民権を回復し、満洲族を中国へ統合する「シンボル」として政治的に活用されました。対して、善耆と芳子は「漢奸」として否定され続けた。日本との関係が「自発的な協力」とみなされたことが、決定的な差でした。旅順に立てられた善耆の胸像も記念碑も壊され、北京の墓も石碑ごと打ち砕かれ、いまはグラウンドや倉庫になって、跡形もありません。

> 私の見立て——歴史の評価は、しばしば「誰が勝ったか」で決まる 善耆の改革の功績は、今日それなりに評価されます。けれど、その晩年の選択——最後まで清朝に忠を尽くし、日本と手を結んだこと——が、家族に数十年の苦難を負わせ、一族の記憶そのものを消させました。彼は、時代の変化に抗い続けた末に、歴史の表舞台から消された王族です。けれど、消された記憶が、ぜんぶ消えたわけではない。北京では砕かれた善耆の書が、海を越えた松本・正麟寺の、娘・芳子の墓のそばに、いまも一基、静かに立っています(→「[川島芳子]」)。勝者が書く歴史がこぼした一族の記憶を、松本という土地が、そっと拾って守っているのです。

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