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清朝末期シリーズ|粛親王家 関連記事 川島浪速——紫禁城を救い、善耆と夢を共にした松本人

清朝末期シリーズ|粛親王家 関連記事

川島浪速——紫禁城を救い、善耆と夢を共にした松本人

1865年(松本藩士の家)~ 1949

警察制度から海軍建設まで——単なる「上司と部下」を超えた日中の絆

松本藩士の子として生まれた川島浪速は、清朝の皇族・善耆と深い信頼関係を結び、警察制度の創設から海軍建設の夢まで共に追いかけた。その縁は養女・川島芳子という形で今日まで語り継がれている。

川島浪速(18651949年)。長野県松本に生まれたこの人物が、なぜ清朝末期の歴史に深く関わることになったのか。そしてなぜ粛親王・善耆から「肉親でも及ばない」と言われるほどの信頼を得たのか。

彼の生涯は、日中の歴史が交差した激動の時代を、一人の日本人がいかに誠実に生きたかを示している。

I. 松本から中国へ——縁の始まり

松本藩士の子として

1865年、川島浪速は長野県松本の松本藩士の家に長男として生まれた。1882年に東京外国語学校に入学するが、その後中退して中国へ渡る。

1894年の日清戦争では陸軍通訳として活躍した。この経験が、川島と中国との縁を深めていった。

私は松本出身である。川島浪速という人物が同じ松本の土地に生まれ、清朝の歴史と深く関わったことは、地元の人間として特別な思いで受け止めている。

義和団事件——紫禁城を砲撃から救った男

1900年、義和団事件が勃発した。川島浪速は天津から上陸し、北京へと突入した。

当時、連合国軍は紫禁城を砲撃しようとしていた。しかし川島浪速は「貴重な文化遺産を守るべきだ」と考え、中国語で紫禁城の守備兵を説得し、開城させることに成功した。

こうして紫禁城は戦火から守られた。後に松本市では、清朝の文化遺産を守るために尽力した川島の功績が語り継がれることになる。

「清朝について研究し文化遺産を守るために必死で努力した日本人がいることを忘れないでほしい」——私の恩師の言葉は、川島浪速のような人物を指していたのかもしれない。

II. 善耆との出会い——警察制度を共に作った二人

北京警務学堂総監督として

義和団事件の翌年、講和条約が締結された。清国政府は治安維持のため日本軍に川島浪速の派遣を要請し、清朝は川島を官吏に任命した。川島浪速は北京警務学堂の総監督となり、警察官の養成と清朝警察制度の確立に尽力した。

その直属上司が、粛親王・善耆だった。

日本の警察制度を参考にしながら中国の実情に合わせた制度設計——この共同作業の中で、善耆は川島浪速の人物と能力を高く評価し、深い信頼関係が築かれていった。

「肉親でも及ばない」という言葉

善耆はのちに川島浪速をこう評した。

粛親王・善耆 「君が余のために尽くしてくれたことは、肉親でも及ばないほどである」

この言葉は、二人の関係が単なる上司と部下を超えていたことを示している。辛亥革命後の亡命生活においても、川島は善耆に随行し、精神的な支柱となった。

III. 善耆の夢を共に追った——警察から海軍へ

海軍建設の夢

善耆が川島浪速に相談していたのは、警察制度の創設だけではなかった。研究者の調査によれば、善耆は清朝の海軍を建設しようと構想しており、川島浪速を通じて日本の造船会社に多額の資金を投じていたという。

清朝の海軍建設——それは単なる軍備拡張ではなく、西洋列強に対抗できる近代国家として清朝を復興させるという、善耆の大きな夢の一部だった。川島浪速はその夢に深く関わっていた。

警察制度の創設、海軍建設の構想——善耆と川島浪速は「上司と部下」ではなく、清朝復興という同じ夢を追いかけた同志だったのかもしれない。

満鉄株券——そして戦後の崩壊

善耆は満州鉄道(満鉄)の株券も購入していた。日本の力を借りて清朝を復興させるという構想の中で、満鉄への投資は合理的な選択に見えたのだろう。

しかし1945年、日本の敗戦とともにすべては崩れ去った。造船会社への投資も満鉄株券も、戦後の混乱の中で無価値となった。粛親王家はこうして極貧の状態に陥ることになった。

川島尚子著『望郷』によれば、粛親王家の子孫は現在も日本に在住しているという。しかし善耆が夢見た清朝の海軍も、満鉄への投資も、今や歴史の中に消えてしまった。

善耆の財産は清朝復興の夢に注ぎ込まれ、戦後にすべて失われた。粛親王家が極貧になったのは、善耆が日本を信じ、共に夢を追いかけたことの代償だった。

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IV. 養女・川島芳子——縁が生んだ数奇な運命

7歳の王女を託された理由

善耆が川島浪速に最も深く信頼していたことを示す出来事がある。1914年頃、善耆は第14王女・顯㺭(わずか7歳)を川島浪速の養女とした。これが後に「男装の麗人」として知られる川島芳子である。

「わが娘を頼む」——この言葉の重さは、二人の間に積み重なった信頼なしには語れない。川島浪速は芳子を松本に連れ帰り、浅間温泉の邸宅で育てた。

松本での日々

芳子は松本高等女学校(現・蟻ヶ崎高校)に通い、浅間温泉から馬に乗って通学した。「さすが清朝のお姫様」と松本市民に噂された少女は、養父・川島浪速の邸宅で日本人として育てられていった。

川島浪速は単に養父となっただけでなく、芳子に清朝の歴史と誇りを伝え続けた。善耆との縁、紫禁城を守った話、警察制度を共に作った日々——これらはすべて芳子の心に刻まれていったはずである。

V. 遺産——形を変えて残るもの

松本市正麟寺

川島浪速の墓は、長野県松本市蟻ヶ崎の正麟寺にある。川島芳子の遺骨も合葬される形でここに眠っている。

しかしなぜ、中国で処刑された芳子の遺骨が松本にあるのか。戦後の困難な時期、松本から僧侶がわざわざ中国の田舎まで赴き、芳子の遺骨を引き取って帰ってきたのである。政治的な評価がどうであれ、松本の人々にとって芳子は「川島家の娘」であり続けた。その縁の深さが、芳子を故郷・松本の土に返した。

墓のそばには善耆の書が刻まれた石碑が立ち、川島家と粛親王家の深い縁を今に伝えている。「川島芳子を偲ぶ会」が毎年325日頃に法要を行っており、20233月にはメンバーに案内していただき初めてお参りすることができた。

恩師の言葉

松本出身の私の恩師は、こう言っていた。

恩師 「敗戦により日本国が悪魔のような悪者のように中国では言われているし、戦後教育を受けた日本人の中には、それを肯定している人間もいる。しかし、清朝について研究し文化遺産を守るために必死で努力した日本人がいることを忘れないでほしい」

川島浪速という人物は、まさにその言葉を体現した一人だった。紫禁城を砲撃から守り、警察制度を作り、善耆の夢に寄り添い、芳子を育てた——その生涯は、歴史の教科書には載らないが、松本という土地に静かに息づいている。

年表:川島浪速の生涯

出来事

1865

長野県松本(松本藩士の家)に生まれる

1882

東京外国語学校入学、のちに中退して中国へ渡る

1894

日清戦争で陸軍通訳として活躍

1900

義和団事件——紫禁城砲撃を阻止。北京へ突入し単身交渉

1901

清国政府の要請で北京警務学堂総監督に就任。善耆と出会う

1912

辛亥革命後、善耆の旅順亡命に随行

1914年頃

善耆の第14王女・顯㺭を養女として引き取る(川島芳子)

1922

善耆、旅順で死去

1932年~

満洲国建国後、要職を務め文化事業に携わる

1949

死去

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