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端王・載漪(ザイイー)―息子を皇帝にできなかった男が、義和団で清朝を滅亡の淵へ

『那年花开月正圆』が描いた守旧派皇族の、史実の姿

 はじめに――ドラマの悪役は、誇張ではなかった

中国ドラマ『那年花开月正圆(月に花が咲く如く)』をご覧になった方は、腐敗した守旧派の皇族として描かれた載漪(ザイイー / Prince Duan)を覚えておられるかもしれません。西洋化の波に抗い、改革派を潰そうとする人物。演出もあるでしょうが、史実の載漪もまた、自らの野望のために清朝を滅亡の瀬戸際まで追い込んだ人物でした。

光緒帝と西太后の確執を、誰よりも喜んでいた男がいた。それが載漪です。

 出自と家系――道光帝の孫

端王・載漪(1856〜1922)は、清朝皇族の一員です。道光帝の孫にあたり、惇親王・奕誴(道光帝第5子)の次男として生まれました。のちに瑞親王家の養子となり、爵位を継いで端郡王(端王)となります。

シリーズの読者には、ここが重要です。道光帝が「仁孝」で後継者を選んだあの一手(→道光帝 「仁孝」の誤算)が生んだ血筋の一つが、半世紀後にこの載漪へとつながっている。あのとき帝位を継いだ咸豊帝の弟たちの家系が、清末の権力闘争の主役になっていくのです。

載漪の妻は、西太后の姪でした。この縁組みにより、載漪は西太后の深い信頼を得ます。総理各国事務衙門(外交機関)の大臣、武衛軍の統領などの要職を歴任し、外交・軍事・朝廷で大きな権力を握りました。

 息子を皇帝へ――大阿哥・溥儁の擁立と、その失敗

載漪の政治的野心の核心は、息子の溥儁(ふしゅん)を皇帝に擁立することにありました。

光緒25年(1899年)、西太后は光緒帝の廃位を画策し、溥儁を「大阿哥(たいあこ=皇位継承者)」に据えようとします(己亥建儲=きがいけんちょ)。溥儁は載漪の息子ですから、実現すれば載漪は「皇帝の父」になる。しかしこの動きは諸外国の強い反対に遭い、計画は頓挫しました。

 

**私の見立て**――

この屈辱が、載漪の運命を決定的に変えたのではないでしょうか。伝えられるところでは、外国使節が祝辞を述べに来ることを期待して茶菓子まで用意していた載漪は、待てど暮らせど、祝辞を述べる外国人が一人も現れなかったといいます。「面目を失った」――この体験が、彼の胸に諸外国への深い憤りを刻みつけた。息子を皇帝にできなかった恨みと、外国への屈辱。この二つが、彼を暴走へと駆り立てていきます。

 義和団を「道具」として

息子を次期皇帝にできなかった載漪は、義和団に目をつけました。彼は義和団を、西洋列強を排除し、自らの政治的野望を実現するための「道具」とみなしたのです。朝廷内で好戦派(主戦派)を形成し、西太后への影響力を強めていきました。

そして1900年、清朝は列強11カ国に対して宣戦布告の勅令を発します。義和団の乱の本格化です。

ここで、以前私は「載漪が外交文書を偽造し、それを見た西太后が激怒して宣戦布告した」と書いていましたが、この点は慎重に補正しておきたいと思います。

 

**史実の補正メモ**――「列強が西太后に引退(帰政)を求めた」という照会文書が存在し、西太后がこれを見て激昂して宣戦を決めた、という話は当時広く語られました。そしてこの照会が偽物だったことも事実とされています。ただし、それを載漪一派が偽造したという説には、近年、事実と符合しない点が多く、当人による偽造説は否定される方向にあります。また、宣戦布告の理由は諸説あり、①偽の照会説のほかに、②義和団の圧力、③大沽砲台を列強が(交戦状態でもないのに)攻め落としたこと、④度重なる帝国主義的圧力への憤り、などが挙げられ、むしろ大沽砲台の陥落が最も決定的だったとする見方も有力です。

つまり、正確に言えばこうなります。**載漪が主戦派を煽動し、義和団を利用して開戦へ突き進んだことは事実**です。しかし、「彼が偽造文書一枚で西太后を騙して開戦させた」と単純化するのは、史実に照らすと踏み込みすぎです。開戦は、載漪の野心・義和団の圧力・列強の軍事的挑発(大沽砲台)が重なった結果でした。載漪はその中で、開戦を望み、後押しした主役の一人だった――そう捉えるのが正確です。

 宣戦布告から敗北へ――そして「東南互保」

載漪配下の兵は、ドイツ公使ケッテラー(Clemens von Ketteler)の殺害に関わり、義和団による外国人やキリスト教徒の殺害を容認しました。結果は、八カ国連合軍の侵攻と、北京の陥落です。

ここで、シリーズの縦糸が交差します。北京の中央が列強に宣戦布告したにもかかわらず、南方の総督たち(李鴻章・張之洞・劉坤一ら)はこれに従わず、列強と独自に不戦の取り決め――**東南互保(とうなんごほ)**――を結びました。中央の宣戦布告を、地方が公然と無視したのです。

これは、清朝の中央がもはや地方を統制できないことを、世界の前に露わにした瞬間でした。以前書いた八旗の記事(→八旗の衰退から袁世凱まで)を思い出してください。太平天国以降、軍事力は満洲人の中央から漢人の地方実力者へと移っていました。東南互保は、その「地方への権力移動」が極まった姿です。**載漪が引き起こした戦争は、はからずも、清朝がもう一つの国ではなくなっていたことを証明してしまった**のです。

戦後の講和(北京議定書、1901年)で課された賠償金は、元本4億5000万両、利息を含めると約9億8000万両にのぼりました。当時の清朝の歳入が約8800万両ですから、実に**歳入の11年分以上**。この賠償金が国庫を壊滅させ、そのしわ寄せは民衆に及びます。「扶清滅洋」と清朝を助けようとした運動の果てに、民衆はかえって重税に苦しみ、清朝そのものを見限っていく。義和団の乱は、辛亥革命への重要な伏線となりました。

 西太后の庇護と晩年

清朝の朝廷は形式上、載漪に爵位剥奪・流刑を命じました。息子の溥儁も大阿哥の地位を剥奪され、父とともに流刑に処されます。だが西太后の庇護により、刑が厳しく執行されることはありませんでした。流刑先には諸説あり、新疆からモンゴル方面や西安へ移ったとも伝わります。載漪は最終的に西安で貧しい晩年を送り、1922年に死去。息子・溥儁も内モンゴルで貧しく暮らし、1942年に没しました。

「皇帝の父」になるはずだった男と、「皇帝」になるはずだった息子が、ともに辺境で貧窮のうちに世を去った――野心の果ての、あまりに寂しい結末です。

【私の見立て】野心家たちもまた、王朝を滅ぼした

載漪という人物を見ていると、義和団の乱が単なる民衆運動ではなく、**朝廷内の権力闘争と野心によって拡大・利用された側面**が見えてきます。光緒帝と西太后の確執を「好機」とみなし、外国の反対という屈辱をエネルギーに変えて暴走した男。それが載漪だったのではないでしょうか。

清朝末期の悲劇は、西太后の独裁や光緒帝の無力だけが原因ではありません。**その周囲に群がった野心家たちの存在もまた、王朝衰退の大きな要因**でした。頤和園の記事で「わかりやすすぎる悪女の物語を疑う」と書きましたが(→西太后と頤和園)、それは裏を返せば、西太后一人に責任を負わせては見えなくなるものがある、ということです。載漪のような野心家たちが、王朝の末期にどれだけ火に油を注いだか。『那年花开月正圆』が描いた守旧派皇族の姿は、あながち誇張ではなかったのかもしれません。

そしてその大局――なぜ清朝はここまで追い詰められたのか――は、この清末シリーズ全体を通して見えてくる問いでもあります。八旗の衰退、頤和園、義和団、そして満蒙独立へ。一つ一つの出来事の背後に、必ず「人の野心」と「構造の崩壊」の両方がある。載漪の物語は、その「人の野心」の側を、最もむき出しの形で見せてくれる一例なのです。

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