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ミーユエと義渠王 そこに愛はあったのか 実は女を武器にした謀略 ドラマ『ミーユエ王朝を照らす月』

宣太后・芈月と義渠王の30年に及ぶ壮大な謀略

中国史上初めて「太后」の称号を得た女性、宣太后・芈月。

彼女が仕掛けた30年越しの壮大な計略は、一つの国家を滅ぼし、秦の天下統一への道を開きました。

宣太后(ミーユエ)の決断

紀元前306年、わずか8歳で秦の昭襄王が即位しましたが、幼少であったため、

母である宣太后(ミーユエ)が摂政を務めました。

当時、秦は内乱(諸侯の反乱)と外的脅威(他国の攻撃)に直面し、

義渠国に侵攻を仕掛けられたらひとたまりもない態勢にありました。

当時、秦の北西には強大な遊牧国家・義渠国が存在し、その脅威は秦の拡大政策にとって最大の障壁でした。

義渠国は約800年の歴史を持ち、最盛期には20万平方キロメートルもの領土を支配。

現在の甘粛省東部、陝西省北部、寧夏回族自治区になります。

全民皆兵制を敷き、騎兵による機動戦を得意とする強国でした。

愛か、策略か ―30年の関係

宣太后が選んだ道は、武力による対決ではなく、懐柔策でした。

紀元前306年、芈月は秦の北西辺境の脅威を排除するため、自ら進んで義渠王と男と女の関係を築き、

二人の息子をもうけました。

この関係は実に30年間続きました。

表面上は愛情に満ちた関係に見えましたが、その実態は冷徹な政治戦略でした。

義渠王は才能と知恵に恵まれ、草原の鷲のように獰猛な戦士でした。

義渠王は抜け目のない君主として、当初は私利私欲のために宣太后を操っていたつもりでしたが、

長きにわたる安穏とした生活の中で警戒心を失ってしまいました。

 

その間秦は経済援助を通じて義渠国を麻痺させていきました。

その間、秦は着々と国力を回復させ、東方への進出準備を整えていきました。

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甘泉宮の宴 ―冷徹な結末

紀元前272年、68歳となった宣太后はついに行動を起こします。

宮殿で盛大な宴を開き、義渠王を招待。そして宴の最中、義渠王を殺害したのです。

さらに冷酷なことに、義渠王との間に生まれた二人の息子も処刑されました。

直後、秦軍は一斉に義渠国へ侵攻。

800年の歴史を持つ義渠国は滅亡しました。

謀略の歴史的意義 ―統一への礎

後世の歴史家は宣太后のこの功績を「司馬錯による巴蜀征服に劣らない」と高く評価しています。

義渠国の滅亡により、秦は後方の憂いを完全に断ち、全力を東方への進出に集中できるようになりました。

この戦略的勝利こそが、後の六国統一、そして中国初の統一帝国・秦の誕生へとつながる重要な転換点となったのです。

ドラマと史実のギャップ

テレビドラマ『ミーユエ伝』では、宣太后と義渠王の関係が本当の愛情があったようにに描かれていますが、

史実はより冷徹です。

義渠王の最後は悲しむミーユエの目の前で、昭襄王の命を受けた秦の軍に矢をいられてなくなりますが、

実際はミーユエが義渠王の酒に毒をしこみ、義渠王の暗殺はミーユエ主導でした。

これは純粋な政治的策略であり、国家の生存をかけた壮大な計画でした。

30年という歳月をかけて一国を滅ぼす。

女の武器だろうが、使えるものはなんでも使う

その忍耐力と冷徹さは、まさに「女傑」という言葉がふさわしいと思います。

 

義渠王国の滅亡は、何世紀にもわたって中原を悩ませてきた西方の勢力が完全に消滅したことを象徴しています。

その領土は秦の支配下に入り、農耕文明と遊牧文明の融合が加速しました。

 

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