公孫衍は実在した
中国ドラマ『ミーユエ』に出てくる公孫衍は、張儀とはりあって結局秦を出ていき、外交戦略をたてます。
公孫衍と張儀の外交政策が激突することになります。
「弱国連合」を掲げた公孫衍の合縦策、「強国に従う」張儀の連横策。
文武両道の才能を持ちながら、公孫衍はなぜ歴史の敗者となったのでしょうか。
公孫衍は、国境の町で育った
公孫衍は魏国の陰晋(現在の陝西省華陰市)出身です。
この地は魏と秦の国境に位置する戦略的要地で、両国が激しく争奪を繰り返していました。
出自については貴族の庶子系統と関係がある可能性が高いとされていますが、
史書には具体的な家系の記載がほとんどありません。
この出自の曖昧さが、後に彼の運命に大きく影響することになります。
公孫衍は魏での初期の成功をおさめる
公孫衍が最初に歴史の表舞台に登場したのは、魏の将軍としてでした。
彼が提唱した戦略は実に巧妙なものでした。
「表向きは斉と交わり、裏では楚と結ぶ」
この二重外交戦略により、公孫衍は斉と楚の大戦を引き起こすことに成功します。
両大国が消耗し合う中、魏は漁夫の利を得ることができました。
この功績は、彼が単なる武将ではなく、高度な外交戦略を描ける知将であることを証明しました。
公孫衍はなぜ秦へ去ったのか
しかし、才能がありながら公孫衍は魏で重用されませんでした。理由は明確です。
魏の朝廷内部には階級による排斥が存在していました。
彼のはっきりとしない出自のため、どれほど功績を上げても、魏王から直接重用されることは困難でした。
この状況に失望した公孫衍は、紀元前333年、秦への移籍を決断します。
秦での栄光:魏を知る者が魏を破る
秦での公孫衍の活躍は目覚ましいものでした。
彫陰の戦いで、彼は秦軍を率いて魏軍を大破します。
魏の軍事事情――特に河西地域の防衛配置――を熟知していた彼ならではの完璧な作戦でした。かつての祖国の弱点を突く形となったのです。
この功績により、公孫衍は**大良造(相国に相当する最高位)**に封じられます。軍政の大権を握り、ついに抱負を実現する機会を得たのです。
魏では叶わなかった夢が、秦で実現したのでした。
張儀の登場
しかし、栄光は長く続きませんでした。
張儀が秦に入国すると、状況は一変します。楚王が斉と組んで秦を攻めようとした際、公孫衍は出兵を主張しましたが、張儀は「外交で楚斉同盟を破壊してみせる」と宣言。そして実際にそれを成し遂げたのです。
もともと公孫衍は秦の相邦を継ぐ見込みがありましたが、張儀の外交手腕が秦の恵文王の信頼を勝ち取り、最終的に相邦の座は張儀のものとなりました。
さらに致命的だったのは、公孫衍が魏国から賄賂を受け取り、魏攻撃の延期を進言したという疑惑でした。
史料によれば、彼は魏国攻撃を断念し、代わりに義渠を攻撃するよう進言したとされています。
張儀はこれを秦王に密告。かつての盟友・魏への情が仇となり、公孫衍は失脚し、秦を去らざるを得なくなります。
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合縦策の理想と現実
魏に帰国した公孫衍は、人生最大のプロジェクトに着手します。
「五国相王」――魏・韓・趙・燕・中山が王を称し同盟を結び、秦に対抗するという壮大な構想でした。
後に彼は魏・趙・韓・燕・楚の五国の相印を佩用し、第一次五国連軍による秦攻撃を仕掛けます。
理論上は完璧でした。弱国が連合すれば強国に対抗できる。正義にも適う戦略です。
しかし現実は厳しいものでした:
- 楚と燕が消極的な姿勢を示し、実質的に韓・趙・魏の三国のみが出兵
- 修魚の戦いで秦軍に敗北
- 各国の利害調整が困難を極める
公孫衍自身の「魏から秦へ、そして再び魏へ」という経歴も、各国からの信頼を損ねました。
「魏を裏切って秦に仕え、秦にも反旗を翻したこの男は本当に信用できるのか?」という疑念が常につきまといました。
なぜ張儀は勝ったのか
対照的に、張儀の連横策は見事に機能しました。
張儀の勝因:
- 秦という強大な後ろ盾を持つ
- 一国ずつ個別に攻略する現実的アプローチ
- 心理戦の天才的な使い手(城池返還を口実に魏に割譲を迫る、楚と同盟したふりをして裏切るなど)
- 成果が数値化可能(領土拡大、同盟破壊など)
- その戦略は秦の領土拡大(巴蜀の占領など)に直結
張儀の戦略の実用性と破壊力は合縦をはるかに凌ぎ、秦の統一の基礎を築きました。その影響は死後も持続したのです。
公孫衍の悲劇的な最期
合縦の失敗後、公孫衍は次第に魏王の信頼を失います。
韓の宰相として合縦戦略を継続しようとしますが、暗門の戦いで韓軍が秦に敗れ、合縦計画は最終的に失敗に終わります。
晩年、公孫衍は歴史の舞台から退いていきました。
史料によれば、最終的に魏王から敵国通じの疑いをかけられて殺害されたとされています。
公孫衍の物語と現代への教訓
理想的な戦略の落とし穴:
- 多国間同盟の調整の困難さ(現代のNATOや国連を想起)
張儀のような実利的戦略は強い
- 明確な後ろ盾の存在
- 個別攻略の現実性
- 測定可能な成果
があげられるから
孟子の公孫衍への評価
しかし、私が考える評価は、孟子の与えた評価そのままです。。
「彼ら(公孫衍と張儀)は諸侯に影響力を持つが、その本質は『順応を正とする』、
すなわち君主の意向に従うことで政治的目的を達成するものであり、
独立した人格や道徳的原則を欠いている。だから大丈夫(真の男子)と呼ぶに値しない」
なんのために自分の才能を活かすのか
己の才能を発揮する場所を求めて動く。
そこには、国を愛する気持ちや自分の信念がなかった。
公孫衍は文武両道に優れて、その合縦策は政局を碁盤の目とする考え方は誠に秀逸だと思います。しかし、
どんなに優秀な人でも、なんのために己の才能をいかすかということがみえていないとダメなんじゃないかと私は思います。



