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戦国六国(秦を除く)最後の王の末路

はじめに

紀元前3世紀、中国大陸では長い間続いた戦国時代がついに終わりを告げようとしていました。

秦の始皇帝(当時は嬴政)による他の六国の征服は、単なる軍事的勝利以上の意味を持つ歴史の転換点でした。今回は、各国がどのように滅亡していったのか、その詳細な経緯を辿ってみたいと思います。

韓の滅亡(紀元前230年)

統一戦争の最初の犠牲となったのは韓でした。紀元前230年の春、韓王は抵抗することなく秦に降伏し、韓国は歴史から姿を消しました。

しかし、元韓王の運命は過酷で、4年後の紀元前226年に処刑されることとなります。

趙の滅亡(紀元前228年)

趙の滅亡は特に劇的でした。紀元前229年、秦は趙攻撃を開始しましたが、趙には名将李牧がいました。しかし秦は軍事力だけでなく、謀略も駆使します。

郭凱を買収して李牧を殺害させ、趙の軍事力を根本から断ったのです。

翌紀元前228年、秦軍は趙の首都邯鄲を攻撃。趙王は捕らえられ、嬴政によって方陵へと追放されました。

魏の滅亡(紀元前225年)

魏の滅亡は最も悲惨なものでした。紀元前225年3月、秦の将軍王弁は革新的な戦術を採用します。

黄河と洪溝の水を引いて魏の首都大梁を水攻めにしたのです。

街は氾濫し、多数の市民が犠牲となりました。

この惨状に魏王は降伏を余儀なくされ、魏国は滅亡しました。

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烈士伝説によれば、最後の魏王も後に秦によって殺害されたとされています。

楚の滅亡(紀元前223年)

楚の滅亡に至る経緯は内紛から始まりました。

楚の哀王は即位後わずか2ヶ月余りで、異母弟の門番によって殺害され、

その弟が王位に就くという混乱状態でした。

この内紛に乗じて、紀元前223年、秦軍は楚の首都寿春に侵攻。

楚王は捕らえられ、古い歴史を誇る楚国も滅亡の運命を迎えました。

燕の滅亡(紀元前222年)

紀元前222年、秦の将軍王弁は遼東まで進軍し、燕王を生け捕りにしました。

これにより、かつて荊軻が始皇帝暗殺を試みた燕国も歴史の幕を閉じることとなりました。

斉の滅亡(紀元前221年)

最後まで残った斉の滅亡は、ある意味で最も皮肉な結末でした。

紀元前221年、秦が侵攻した際、最後の王である田建は国務大臣后胜の進言を受け入れ、戦うことなく秦に降伏しました。

しかし、秦王政(始皇帝)は田建を荒れた地に追放し、食料を与えませんでした。

その結果、田建は餓死という悲惨な最期を遂げることとなります。

終わりに

こうして見ると、秦による統一は単純な軍事征服ではなく、謀略、水攻め、政治的操作など、あらゆる手段を駆使した総力戦だったことが分かります。

各国の最後の王たちの運命も様々で、処刑、追放、餓死と、いずれも過酷なものでした。

 

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