はじめに
紀元前3世紀、中国北方の草原地帯で一人の男が歴史を変えました。
その名は冒頓単于(ぼくとつぜんう、?-紀元前174年)。彼は北方草原を初めて統一し、
中国の漢王朝をも脅かす巨大な匈奴帝国を築き上げた人物です。
血塗られた即位
父に捨てられた皇子
冒頓単于の人生は、まさに波瀾万丈でした。
父である匈奴の王は、継母の産んだ幼い息子を後継者にしようと考え、
冒頓を人質として月氏に送ります。
ところが冒頓が月氏に到着するやいなや、父は月氏を攻撃したのです。
これは事実上、息子を殺そうとする行為でした。
月氏は当然、人質である冒頓を殺そうとしましたが、
彼は機転を利かせて月氏の良馬を盗み、それに乗って匈奴へと逃げ帰ることに成功します。
冷酷な権力奪取
紀元前209年(秦2年)、冒頓は父を殺して自らが単于(匈奴の王)に即位しました。
しかし彼の粛清はそれだけにとどまりません。継母、弟、そして自分に逆らう大臣たちを次々と殺害。
さらに部下の忠誠を測るため、自分の妻までも殺すという冷酷さを見せました。
耐え忍ぶ戦略家
東胡王の侮辱
即位後の冒頓は、一見すると弱腰に見える政策を取ります。
東の東胡王が不安定な地盤につけ込んで千里馬を要求してきたとき、
大臣たちの反対を押し切ってこれに応じました。
さらに東胡王は調子に乗って匈奴の美女を要求。
大臣たちは激怒し、東胡への攻撃を求めましたが、冒頓は再びこの要求を受け入れました。
水面下での準備
しかし冒頓は決して弱腰だったわけではありません。
この間、彼は着実に自らの権力基盤を固め、軍備を拡充していたのです。
まさに「臥薪嘗胆」の日々を送っていたのです。
反撃の狼煙
最後の試金石
東胡王が最後に国境の土地を要求してきたとき、ついに冒頓は本性を現します。
今度は土地を与えることに反対しなかった家臣たちを殺し、絶対的な忠誠を誓う者だけを残しました。
そしてついに東胡への攻撃を開始。
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東胡王とその軍隊を全滅させ、東胡の民と家畜を略奪しました。
快進撃の始まり
この勝利に乗じて、冒頓は次々と征服戦争を展開します。
- 河西回廊の月氏を攻撃し、西方への移住を余儀なくさせる
- 楼蘭、烏孫、虎界など20以上の国を征服
- 西域の大部分を支配下に置く
その結果、匈奴は南は銀山山脈(秦の長城)から北はバイカル湖、東は遼河、西はパミール高原まで
の広大な領域を支配し、
30万人以上の騎兵を擁する北方草原最強の国家となったのです。
漢王朝との対峙
白登山の屈辱
紀元前201年、韓王信が反乱を起こして匈奴に亡命すると、冒頓は好機と見て南下を開始。
太原を攻めて晋陽にまで達します。
翌年、漢の高祖・劉邦が自ら軍を率いて出撃しましたが、
白登山で冒頓の40万精鋭騎兵に包囲される事態に。
劉邦は和平を結ぶほかなく、最初の和親公主(漢の皇女)を冒頓に送ることになりました。
呂后への侮辱
紀元前195年に劉邦が死去すると、冒頓は呂后(劉邦の皇后)に
「互いに一人だから慰め合いましょう」という侮辱的な手紙を送りました。
呂后は激怒し、匈奴の使者を殺害して軍隊を送ろうとしましたが、
大臣たちが「今は冒頓と戦える状況ではない」と制止。
結局、紀元前192年に二番目の和親公主と贈り物を送ることで事態を収拾しました。
歴史に残る英雄か、それとも…
冒頓単于は確かに卓越した軍事指導者でした。
父に見捨てられ、周辺諸国に侮られながらも、最終的には北方草原を統一し、
中華帝国をも脅かす大帝国を築き上げた手腕は見事と言わざるを得ません。
一方で、父や妻まで殺害した冷酷さ、征服戦争による略奪と殺戮など、
現代の価値観では到底受け入れがたい面も持っています。
しかし歴史を動かした人物として、その戦略的思考と実行力は学ぶべきものがあるのも確かです。
忍耐と準備、そして決断力の重要性を物語る、古代史の興味深いエピソードと言えるでしょう。